袁世凱
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中華民国大総統就任1912年3月10日、宣統帝の退位とともに袁世凱は中華民国臨時大総統に就任した

袁の政治に対する考えは一貫しており、中央の元首が強権を振るうことで初めて麻のように乱れた中国はまとまり得るというものであった。こうした発想は当時の対中国観の主流であり、孫文などもそう考えていた。しかしこれにたいして当時国民党の実質的指導者である宋教仁は、最高権力者の権限を制限し、議院内閣制を行うことが必要であると主張した。当時としては新鮮なこの考えは多くの国民の心を捉え、国民党は1912年12月の選挙で圧勝した。袁は大きな影響力を持ちつつある宋を警戒し、懐柔策をしばらくとり続けたが、ついに1913年3月、宋教仁を暗殺した。その後も大総統の権限を強化したり、任期を長くするなど自らの強権に努めた。

この後、多くの国から借款を行い、近代化資金を確保し、インフラ整備を行った。この借款にたいして南方各省から反発の声があがり反乱となったが、袁は得意の軍事力をもってこれを撃退した。反乱軍を指揮していた李烈鈞・孫文・黄興らは日本に亡命した(1913年9月、第二革命)。同年10月には正式に大総統に就任。さらに国民党の解散命令を出したうえで、国会内の国民党議員を全員解職した。

1914年7月、第一次世界大戦が勃発すると、袁の中華民国政府は中立をいちはやく宣言した。しかし、隣国の日本は日英同盟を理由に膠州湾岸のドイツ領に出兵し、占拠した。この間、袁は日本に領土の返還を求めるが、受け入れられなかった。さらに日本から「21か条要求」を突きつけられる。袁はこの情報を諸外国にリークするなどして不成立させようとするが、1915年5月、ついにこれを認めた(但し、「21か条要求」そのものが、袁世凱が共和制の脆弱性を国民に見せ付けるために日本側と打った「芝居」だとする説もある)。

こうした袁の弱腰(と映った)な姿勢に、自治の姿勢を強めつつあった地方勢力が再び不穏な動きを見せていた。このことが必ずしも理由ではないが、地方から中央への税の流れがとどこおりつつあり、また北京など大都市では袁の専制を批判する動きが学生を中心に広がりつつあった。学生の多くは、主に日本から自由民権思想社会主義などの新しい思想を持ち帰り、袁の施政をすでに時代遅れのものと考えていた。


皇帝即位と退位

洪憲帝
中華帝国皇帝

中華帝国皇帝時代の袁世凱
在位1915年12月12日 - 1916年3月22日
姓名袁世凱
王家袁氏

こうした不安定な状況の中、1915年に袁は帝政復活を宣言した。翌1916年より年号を洪憲と定め、皇帝に即位し国号を「中華帝国」に改めた。こうした袁の行動は、自らの野望を果たすためという面もさることながら(彼の皇帝就任への願望を示すエピソードはふんだんに残されている)、四分五裂した中華を束ねるためには、強力な立憲君主制が必要との考えであったという見方が日本の学者では多い。

しかし、結果はまったく袁の予想と反するものだった。北京では学生らが批判のデモを行い、地方の軍閥はこれを口実に次々と反旗を翻した。彼の足元の北洋軍閥の諸将までもが公然と反発し、袁を批判した。さらには当初傍観していた日本政府が、皇帝即位の受けの悪さを見て取るや、厳しく非難を始めた。結局袁は1916年3月にとうとう退位した。しかし一度失墜した権威は戻らず、同年6月に失意のうちに病死した。死因は尿毒症と伝えられる。

袁の死後、彼の部下であった馮国璋、徐世昌、段祺瑞などが相次いで政権につきいわゆる北京政府として対外的に中華民国の正式政府として存続したが、いずれも一国をまとめる力を持ちえず、各地方を根拠とする軍閥割拠の時代に突入した。蒋介石北伐が終了するまでの10年余り、この状況が続くこととなる。


評価

現在でも中華民国および中華人民共和国で、袁は悪役であり時に漢奸とまでいわれている。中国国民党中国共産党の双方が称揚する孫文らを弾圧したこと、日本の21か条要求に屈したこと、そして時代に逆行して皇帝に即位したことは、革命で打ち立てられた共和制中国を乱したとして厳しく批判されている。

日本でもその反復常なき行動から、袁に対する評価は低い。


参考書籍

J.チェン著、守川正道訳『袁世凱と近代中国』岩波書店1980年

(なお、このなかに所収の竹内実の論文「大正期における中国像と袁世凱評価」が、明治末からの大正にかけてのリアルタイムな日本人の袁世凱観をわかりやすくまとめている)


アーネスト・P・ヤング著、藤岡喜久男訳『袁世凱総統:「開発独裁」の先駆』光風社選書、1994年

袁についての書籍で、日本語で流布しているものはあまり多くない。しかし、資料としての袁世凱自身の上奏文・電信文の類は非常に多く残っており、中華民国を中心に出版されている。ウィキメディア・コモンズには、袁世凱に関連する ⇒カテゴリと ⇒マルチメディアがあります。

先代:
孫文中華民国臨時大総統・大総統
中華帝国皇帝
1912年 - 1916年次代:
黎元洪
カテゴリ: 清朝の人物 | 中華民国の人物 | 中国の皇帝 | 1859年生 | 1916年没

更新日時:2008年8月16日(土)16:32
取得日時:2008/08/18 20:34


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