衛星国
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衛星国(えいせいこく、英語: Satellite state)とは、主権国家として独立しているが、主要政策で大国により主権を制限され、常に追随する行動を取る国家に対する批判的な呼称。第一次世界大戦頃から相手の陣営に参加した国に対して用いられるようになった。
使用例

フランス革命期の姉妹共和国も衛星国と呼ばれる場合がある[1]。1944年5月24日のチャーチル演説には枢軸国陣営を指した「敵国及ソノ衛星国」[2]という表現がみられる。
ソビエト連邦の衛星国

特にソ連と深い経済関係を持ち、ソ連と同盟を組んでいて、そして同じ共産主義思想を信じている国々も「衛星国」と呼ぶ。衛星という言葉はソ連は太陽のように全領域の中心的な地位を独占し続け、周りの国は衛星のようにソ連の指示を従うしかない実態を表している。最初には西側諸国で使われている揶揄的な用語であるが、1980年代に入って東側諸国にもこの概念を受け入れ、頻繁に使われるようになった。

日本を含めた西側諸国では、ワルシャワ条約機構に加盟する東欧諸国などソ連を盟主とする軍事同盟に加盟し、ソ連のブレジネフ・ドクトリンにより主権を制限された諸国について、マスコミや政治学の用語として使用されるようになった。これらの国には東アジアにおけるモンゴル人民共和国東欧におけるドイツ民主共和国(東ドイツ)、チェコスロバキア社会主義共和国ハンガリー人民共和国ポーランド人民共和国ブルガリア人民共和国などが該当する。
モンゴル人民共和国詳細は「モンゴル人民共和国」を参照

モンゴルでは、辛亥革命により清国が滅亡すると、清国の統治機構を一掃して独立を宣言、その後、帝政ロシアの経済的・軍事的支援のもと、化身ラマ(活仏)ジェプツンタンパ8世を君主とする「中国の宗主権下の自治国」という地位を獲得した。ロシア革命による混乱でロシアからの支援が途切れると、1919年、中国はモンゴルを軍事制圧して「自治の返上」を強要することに成功した。モンゴルの独立運動家たちはモンゴル人民革命党を組織し、極東共和国経由でソビエト連邦共産党と接触、その支援を受けて中国の軍隊と統治機関を一掃し、1922年、ジェプツンタンパ8世(ボグド・ハーン)を元首とする立憲君主体制を樹立、1924年、ジェプツンタンパ8世の死去にともない共和制へ移行、モンゴル人民共和国が成立した。以後、ソ連の衛星国としておよそ70年間に及び社会主義体制を貫いた[3]
東欧の衛星国第二次世界大戦後共産主義化によるソ連の衛星国となった東欧諸国。図の赤い部分が該当する。

第二次世界大戦末期においてイギリス首相ウィンストン・チャーチルとソ連の指導者ヨシフ・スターリンの間で会談があり、ヨーロッパにおける西側東側の勢力範囲が決定され、上記8カ国はソ連の勢力圏と決められた。

ただしこれらの国々を一概に「衛星国」とは言えない向きもあり個々の事例については以下に記す。
ドイツ民主共和国(東ドイツ)詳細は「ドイツ民主共和国」を参照

東ドイツ(ドイツ民主共和国)は戦後ソ連の占領を受けたが、ベルリンの壁が構築されるまで、断続的に反ソ的な暴動が頻発していた。ソ連の影響下において安定するのはエーリッヒ・ホーネッカーが登場するのを待つことになる。東ドイツは常に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)との関係が問題となり、東西ドイツ基本条約で西ドイツに東ドイツの存在を認めさせた(ハルシュタイン原則を放棄させた)のは1972年の事であった。また、ドイツは東西冷戦の最前線であり、東ドイツには大量のソ連軍が、西ドイツにはアメリカ軍などの北大西洋条約機構(NATO)軍が駐留していた。

そのため、東ドイツのドイツ社会主義統一党政権は、国家存続のためにソ連に対して常に忠実である必要が生じた。このため、1974年に改正された東ドイツ憲法第6条第2項では「ドイツ民主共和国はソビエト社会主義共和国連邦との恒久的で取り消しえない同盟関係にある。」と規定されていた[4]。すなわち、東ドイツは東欧革命の発生までソ連の衛星国であり続けた。
チェコスロバキア社会主義共和国詳細は「チェコスロバキア社会主義共和国」を参照

チェコスロバキアは第二次世界大戦前に議会制民主主義が機能していた国で、共産党も有力な議会内勢力の一つとして活動していた。戦後もしばらくの間、自由選挙によって選ばれた非共産党政権が政権を運営していた。当初はマーシャル・プランの受け入れを模索していたが、これはソ連の圧力によって撤回された。1948年に閣内不一致で非共産党系の閣僚が辞任したのに乗じて共産党が実権を掌握し、直後の総選挙で圧勝。「人民民主主義」宣言を行ってソ連の衛星国の一つとなった。スターリン主義的手法で国内の社会主義化を進め、1960年に新憲法を採択して正式に社会主義共和国となった。

1968年に共産党による改革運動の「プラハの春」が起こると、ソ連を初めとするワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵入し、この動きを圧殺した。その後は共産党の保守派が政権を維持し、ソ連の衛星国として存在し続けた。これは1989年ビロード革命で共産党政権が崩壊するまで変わらなかった。
ハンガリー人民共和国詳細は「ハンガリー人民共和国」を参照

第二次世界大戦ではハンガリーは枢軸国側で参戦したが、ソ連に全土を占領されて敗戦した。以降、ソ連の影響下に置かれることとなる。1956年に反ソ暴動となるハンガリー動乱が勃発した。この動きもソ連及びワルシャワ条約機構軍の介入により圧殺された。体制は元に戻されたが、チェコスロバキアのグスタフ・フサークらと違って最高指導者のカーダール・ヤーノシュは比較的穏健な政治姿勢を取り、経済は比較的自由であった。1968年頃から西側の経済を緩やかにではあるが取り入れ、ソ連政府の単なる傀儡ではなかった。1980年代には、国民はハンガリー社会主義労働者党の保守派、改革派のどちらかを選択出来る様になり、衛星国という概念は薄れていった。ポーランドの変革に刺激を受けるような形で改革派が実権を握り、ハンガリーは独自に民主化西欧への帰還)への道を歩んでいったのである。
ポーランド人民共和国詳細は「ポーランド人民共和国」を参照

ポーランドは戦前ポーランド第二共和国として独立を遂げていたが、ドイツ・ソ連の双方によって侵攻され、ロンドン亡命政府が作られた。


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