藩鎮
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黄巣の乱まで

しかしその状態もすぐに崩れ、三鎮の旧武将たちが再び藩の権力を掌握し、自らを藩師として認めるように強談し、朝廷側もこれをやむなく認めた。これに呼応するように他藩鎮でも再び自立の動きが出たが、朝廷はこれに対しては断固たる態度で臨み、これを許さなかった。

これ以降、それまで藩師には多くが軍人出身の者が就けられていたのを士大夫出身の者を就けるようになった。また藩鎮の勢力を削り、それまで藩鎮の下部組織と成り果てていたおよびその長官たる刺史も中央直属としての実態を取り戻し、唐朝廷は中央政府としての面目を取り戻した。

しかし士大夫出身の者を藩師に就けることはその下の兵士たちの反感を生み、上級兵士たちは気に入らない藩師を実力をもって追い出し、自らが支持する人物を藩師に立ててこれを朝廷に認めさせるようになった。このような兵士のことを驕兵と呼び、驕兵は戦闘のときにも十分な恩賞が約束されねば戦おうとせず、藩師がわも驕兵の意を迎えるために苦慮することになる。

また藩鎮の勢力を削った結果、藩鎮の抱える兵力が減り、それら軍隊に吸収されていた人員が世に溢れるようになった。元々このような募兵に応えるようなものは多くが自らの土地を持たない客戸であり、軍隊からあぶれてしまえば職も無く、多くが匪賊となった。

このようなことに加え、朝廷は宦官によって牛耳られており、綱紀頽廃も甚だしく、社会全体に急速に不穏な空気が醸成されていった。その結果が黄巣の乱となって顕れる。


唐滅亡から五代

唐は黄巣の乱によって致命傷を受け、形骸のみを残して、実質上は滅亡した。朝廷の権威が衰え、天下は再び朱全忠李克用らの藩鎮勢力が合い争う時代となる。

907年、朱全忠により禅譲劇が行われ、唐は完全滅亡、五代十国時代へと入る。

五代でも藩鎮割拠の風は変わらず、敵対関係であった後梁後唐を除いて五代の変遷は全て旧王朝の節度使職にあった者が旧王朝の皇帝を滅ぼして自ら皇帝となったものである。

北宋の太祖趙匡胤もまた後周の宋州節度使職にあり、後周皇帝より禅譲を受けて建国した。しかし趙匡胤は前轍を踏まないために、宴の席で酒を飲みながら部下の節度使たちに引退を勧め、更に新たに通判の職を置いて節度使の行政権をこれに移し、最終的に節度使を名誉職にすることに成功した。この後、モンゴル帝国との戦いまで、宋において軍人勢力が勃興することはなかったのである。


参考文献

『中国史2』(愛宕元他、山川出版社1996年 ISBN 4-634-46160-9

『隋唐帝国』(布目潮?・栗原益男、講談社学術文庫、1997年 ISBN 4-06-159300-5

『東洋史学論集1』(日野開三郎三一書房1980年 ISBN 4-380-80517-4


『中国歴代職官辞典』(日中民族科学研究所編、国書刊行会 1980年

『唐方鎮年表』1?3(呉延變著.中華書局1980年 二十四史研究資料叢刊)

『中国歴史・文化地理圖冊』(陳正祥編、原書房、1982年


脚注^ 兵役を逃れるために自らの臂を折った翁のことを謡っている
^ 治所の刺史を兼任する


関連項目

廂軍

この「藩鎮」は中国の歴史に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。
カテゴリ: 中国の歴史関連のスタブ項目 | 令外官 | 隋唐 | 中国の制度史

更新日時:2008年8月23日(土)23:25
取得日時:2008/08/29 09:56


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki