唐は太宗の時代に大幅に領土を広げ、その領土を都護府・羈縻政策・府兵制の制度をもって維持していた。しかし武則天期から玄宗期にはこれら諸制度が崩壊を起こし始める。
崩壊の最も大きな原因は、均田制および府兵制を支える主戸(戸籍に登録された戸)が急速に減少したことにある。これら主戸が税負担に耐えかねて逃亡(逃戸)し、本籍地を離れた場所に落ち着いて耕作を始めることが多くなっていた。本籍地を離れた者のことを客戸と言う。府兵制は戸籍を元に兵役義務を負わせる制度のために客戸が増えれば徴兵数は減ることになる。
このことにより、兵士の交代要員を確保することが難しくなり、本来ならば一年で交代の兵役が3年・4年と長引くようになっていた。また唐の領土が拡大しすぎたために辺境ともなるととてつもない遠い地への兵役となっていた。これらの原因が白居易の『新豊折臂翁』[1]に謡われるような兵役拒否を生むことに成り、更に兵士を確保することが難しくなる。
これら唐側の統治の緩みと同時に、突厥・吐蕃・契丹といった周辺諸民族の方でも勃興の動きが活発になり、都護府は大幅な後退を強いられた。
これに対して玄宗は様々な政策を打ち出す。
733年(開元二十二年)、監察のための地方行政単位である道をそれまでの十から十五へと増やし、道ごとに採訪処置使を置いた。採訪処置使は領内の一つの州に治所を置き[2]、州刺史以下の諸官僚たちの査定を行い、中央に報告する役職である。あくまで監察のための役職であり、州県の政治に直接口を出すことは禁じられていた。758年(乾元元年)に採訪処置使は監察処置使(略して観察使)と名が変わる。
他方、軍事面でも710年の河西節度使の設置を初めとして十の節度使が設置された。その元で駐屯する兵士は、徴兵制たる府兵制によって集められたものではなく、募兵制である長征健児制によってのものであった。この制度における兵士は辺境に屯田をしながら半永久的に定住するようになり、国家から給料として衣類を提供されていた。
節度使名治所設置目的設置年兵力
安西亀茲天山南路の防衛、西突厥710年24000
北庭庭州天山北路712年20000
河西涼州吐蕃と突厥の連携阻止710年73000
朔方霊州突厥721年64700
河東太原突厥711年55000
范陽幽州奚・契丹713年91400
平盧営州室韋・靺鞨719年37500
隴右?州吐蕃713年75000
剣南成都吐蕃・吐谷渾714年30900
嶺南五府経略使広州夷?711年15400
節度使は安西・北庭・平盧の長城外節度使とそれ以外の長城内節度使に分けられる。長城外節度使には武人や蕃将(異民族出身の将軍)が就けられ、長城内節度使には中央から派遣された文官が付くのが当初の方針であり、節度使は宰相へと登るためのエリートコースとされていた。しかし玄宗に重用された宰相李林甫により長城内節度使にも蕃将が任命されるようになった。政敵の現れることを恐れた李林甫は宰相になることは出来ない蕃将を節度使に就けるようにしたのである。安禄山も李林甫を通じて玄宗の寵愛を勝ち取り、742年に平盧節度使に、更に范陽・河東をも兼任するようになる。
三節度使を兼任した安禄山の総兵力は約十八万、一方首都長安を防衛する左右羽林軍は六万足らずと安禄山の兵力は圧倒的なものとなっていた。安禄山は楊国忠と玄宗の寵愛を争うが、この争いは常に玄宗の傍に居る楊国忠が有利であり、安禄山は自らの地位を失う恐怖から755年、ついに乱を起こした。(安史の乱)
玄宗は蜀に逃亡、皇太子の亨が朔方節度使を頼り、粛宗となる。その後、反乱軍側の内部分裂と顔真卿・顔杲卿たちに代表される勤皇軍の奮戦・ウイグルの援兵などがあり、唐は763年に何とか乱を収める。しかし唐が乱の勢力を根絶したわけではなく、安史軍の根拠地であった河北には安史軍から投降してきた魏博(天雄軍)の田承嗣・幽州(廬龍軍)の李懐仙・恒冀(成徳軍)の李宝臣などの武将をそのまま節度使として任命していた。
更に乱の途中からそれまで置いていなかった内地にも次々に藩鎮が設置され、藩鎮の総数は50を超え、首都長安・副都洛陽の周辺部を除いた全ての地域が藩鎮の支配下に置かれるようになるのである。軍権と民政権とを兼ね備えた藩鎮の勢力は強大であり、藩鎮は多く自立傾向を持った。特に旧安史軍の三将はその傾向が強く、これを河朔三鎮と呼んでいる。
これら藩鎮は軍職たる節度使(ないし団練使・防禦使・経略使)と行政職たる観察使とを兼任し、事実上中央の命に拠らず藩を領有した。その長たる藩師が死去した場合、その子や配下の有力者がこれを継承し、実力をもって朝廷にこれを認めさせることがほとんどであった。
唐が滅亡した後も唐の正朔を奉じ続けた淮南節度使に見られるように、唐全体の経済を支える江南地域は比較的朝廷に対して恭順であり、逆に河北は旧安史軍の根拠地であり、唐に対して反抗的で納めるべき税を全く収めず自らの収入として使っていた。これら唐に対して反抗的な藩鎮を反側藩鎮と呼ぶ。
乱をようやく収めた代宗朝ではあったが、国力を大幅に消耗しており、藩鎮に対して強い態度を取れる状態ではなかった。
代宗を継いだ徳宗は藩鎮抑圧を目標とし、781年に李宝臣が死去し、その子の李惟岳が世襲を求めてきたがこれを拒否。これに反発した成徳・天雄・平慮・山南東道(陝西東部)の梁祟義が連合して乱を起こす。代宗は禁軍(近衛軍)と廬龍を初めとした他藩鎮軍とを動員して討伐を加え、梁祟義を滅ぼし、李惟岳を捕らえた。
代宗の藩鎮討伐は成功するかに思えたが、大量の兵員動員による軍事費は財政を圧迫し、それを補うために行った増税は民衆の強い反発を買った。また代宗の強硬姿勢を見た他藩鎮は自らの地位を失うことを恐れ、初めは官軍に与していた廬龍軍などが乱側に寝返ってしまった。更に討伐に力を入れる余り、長安周辺の防備は甚だ薄くなった。
この虚を突いて783年に乱が起こり、元幽州節度使の朱?を擁立して長安を占拠した。狼狽した代宗は奉天(長安の西。瀋陽のことではない)に逃れる。
代宗は事態を収拾するために乱側の藩鎮の地位を保全して罪を赦し、疲弊した藩鎮側もこれを受け入れる。これを受け入れない廬龍・淮西そして長安を占拠した朱?らも786年までに何とか滅ぼすことに成功する。
しかし淮西の李希烈を殺した功績で淮西節度使となっていた陳仙奇が再び799年に乱を起こし、一年余りの戦いの末に罪一切不問とすることでこれを収めた。長い戦いにより多くの兵士と金銭が失われたが、結局藩鎮抑制の目標を達成したとは言いがたい。
即位早々の806年、西川節度使(四川西部)の劉闢が勢力拡大を目指して東川(四川東部)を攻撃したので、これを討伐して劉闢を捕らえて斬刑に処した。これを手始めに夏綏銀節度使の楊恵琳、鎮海軍節度使の李?を討伐する。更に河朔三鎮をも討たんとするがこれは失敗に終わる。しかし憲宗はこれに挫けず、淮西の呉元済を滅ぼす。
この憲宗の態度に驚愕した藩鎮側も朝廷に対して恭順な態度をとるようになり、平盧の李師道・成徳の王承宗は自ら領地の一部を返還し、横海軍の程権は三州全ての領地を返還して藩の歴史を自ら絶った。しかしこの成功にも憲宗は満足せず、平盧の返還の履行が遅れたことを理由にこれを攻撃して滅ぼした。