藤原緒嗣
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晩年

828年、冬嗣が没すると右大臣だった緒嗣は姉・旅子が生んだ淳和天皇を助けて再び政治の中枢に立つものの病気がちで満足に政務が取れない日々が続いた。更に将来を期待していた長男家雄にも先だたれる。既に冬嗣の息子の長良良房兄弟は政界の中心に台頭しつつあり、冬嗣にはその死後に更に差を付けられてしまう事となる。

嵯峨朝から仁明朝は崇文の治と称えられるほどの安定した治世ではあったが、嵯峨天皇がすぐに皇子である正良親王(仁明天皇)に譲位せず、弟の大伴親王(淳和天皇)に譲位した事は両親王派の派閥を生む事となった。かくして、嵯峨上皇崩御後の承和9年(842年)に起こった承和の変によって、中納言藤原吉野(緒嗣の従兄弟の子)が流刑になったのは式家には大きな痛手となった。その翌年、正二位左大臣に昇ったとは言え、その志を十分達することなく病死した。晩年は空海ゆかりの観音寺(今熊野)の整備とその隣接地における法輪寺(後の泉涌寺)創建に携わり、次男の春津の代に完成している。墓所は観音寺内にあるとも言われているが不詳である。「国の知りて奏せざることなし(常に国と民を思い、政治的な問題は必ず議題とした)」

といわれた賢明で良心的な政治家であったが、その反面頑固一徹なところがあり、そのために政治的には孤立してしまう側面があり、冬嗣親子に苦汁をなめさせられる事が多かったと言う。この父の姿を見て育った次男の春津は父の死後、早々と引退をしてしまい、緒嗣の死後に式家が政治の中枢に立つ事は二度となかった。


系譜

父 : 藤原百川

母 : 伊勢大津の娘

異母姉 : 藤原旅子(759-788)

弟 : 藤原緒業

妻 : 蔵垣忌寸企の娘

長男 : 藤原家緒(799-832、従四位下左兵衛督兼美濃守)

次男 : 藤原春津(?-859、従四位下で致仕。息子藤原枝良…845-917、従四位上参議)


妻 : 不明

男子 : 藤原本緒

男子 : 藤原忠宗

女子 : 藤原正子(桓武天皇女御、藤原清成の娘とも言われる)

女子 : 藤原常嗣


略歴

延暦7年(788年) - 正六位上。内舎人

延暦10年(791年) - 従五位下。侍従兼中衛少将

(この間に、常陸介・内厩頭を兼任)

延暦16年(797年)7月 - 正五位下、同月改めて従四位下。同月衛門督に昇進、翌月出雲守兼任

延暦17年(798年) - 造西大寺長官兼任

延暦20年(801年) - 右衛士督に昇進

延暦21年(802年) - 参議

大同元年(806年)5月 - 山陽道観察使兼任。閏6月畿内観察使兼任に変更

大同2年(807年) - 参議廃止(畿内観察使兼右衛士督)

大同3年(808年)3月 - 刑部卿兼任。5月東山道観察使兼陸奥出羽按察使(翌年陸奥赴任)

大同5年(810年)5月 - 観察使廃止・参議復置9月 - 美濃守に兼職が変更されて帰京(同月、「薬子の変」発生)同月 - 弘仁元年に改元後、右衛士督兼任(再任)

弘仁6年(815年) - 従三位(藤原冬嗣は前年に任命され、地位が逆転する)

弘仁8年(817年) - 中納言

弘仁9年(818年) - 正三位

弘仁12年(821年) - 大納言

弘仁14年(823年) - 従二位。皇太子傅兼任

天長2年(825年) - 右大臣

天長3年(826年) - 藤原冬嗣(左大臣)死去(緒嗣、政府首班となる)

天長9年(832年) - 左大臣

天長10年(833年) - 正二位

承和10年(843年) - 正二位左大臣で死去(70歳)


関連項目

藤原氏

藤原氏の人物一覧

日本後紀


参考文献

高橋崇「藤原緒嗣と菅野真道」(『続日本紀研究』3巻6号、1956年)。

林陸朗「藤原緒嗣と藤原冬嗣」(『上代政治社会の研究、吉川弘文館、1969年)

木本好信「藤原緒嗣」(『平安朝官人と記録の研究』、おうふう、2000年)
カテゴリ: 藤原式家 | 平安時代の公家 | 774年生 | 843年没

更新日時:2008年7月5日(土)23:37
取得日時:2008/08/26 17:28


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki