藤原継縄
不朽の名作から
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豊成の男子は4人知られており、順に良因[1]・継縄・乙縄・縄麻呂であった[2]。夫人に百済王明信敬福の孫か)と大伴旅人の娘(留女之女郎、側室)がいる。子に藤原乙叡、藤原真葛がいる。


出生から藤原仲麻呂の乱まで

763年(天平宝字7年)37歳で従五位下となり[3]、信濃守に任官した後、764年(天平宝字8年)藤原仲麻呂の乱が起こると、大宰員外帥に左遷されていた父豊成が右大臣に復位すると同時に越前守に任じられた。藤原仲麻呂は北陸道への逃亡を企てており越前は軍事的に重要な場所であった点から、軍事目的の任命であったと考えられる。


道鏡政権・光仁朝

道鏡政権下で叙位・任官を重ね、766年(天平神護2年)に参議、光仁天皇即位後の771年(宝亀2年)従三位に昇叙された。その後、左兵衛督兵部卿を兼任するなど軍事畑を歴任する。780年(宝亀11年)中納言昇進後に陸奥国蝦夷の族長伊治呰麻呂が反乱し、按察使紀広純を殺害する事件がおきると(宝亀の乱)、これを鎮圧すべく征東大使に任ぜられた。しかし継縄は準備不足などを理由にして京から出発しようとせず、遂に大使を罷免されてしまった(後任大使は藤原小黒麻呂)。ただし特に叱責を受けたり左遷されるなどの処分は受けていない。


桓武朝

桓武天皇即位後は、785年(延暦4年)の藤原種継暗殺や、桓武の皇后藤原乙牟漏夫人旅子の相次ぐ死により藤原式家の勢力が衰えたためか[4]、叙位任官も順調で、大納言を経て更に中務卿左京大夫を兼ねる。790年(延暦9年)右大臣にのぼり、皇太子傅・中衛大将を兼ねた。彼が太政官筆頭にいた時期の重要事項として、792年(延暦11年)全国の兵士を廃止して健児を置いたことがあげられる。794年(延暦13年)の平安京遷都に深く関わったとする説もある。『続日本紀』の編纂者として挙げられているが彼の生前には一部分しか出来上がっておらず、実際に関与した部分は少なかったと見られている。また夫人が渡来系氏族出身であったためか、同じく百済系渡来氏族出身とされる高野新笠を母に持つ桓武天皇からの個人的信頼が厚かった政治家の一人であり、天皇が継縄の邸に訪れることもしばしばであった。その際に百済王氏一族を率いて百済楽を演奏させたことがある。『日本後紀』の薨伝によれば、凡庸な人物であるが人柄はよかったという。没後に従一位が贈られた。


参考文献

黒板勝美編『続日本紀前編』新訂増補國史大系、吉川弘文館、1974年、ISBN 4642000038

黒板勝美編『続日本紀後編』新訂増補國史大系、吉川弘文館、1974年、ISBN 4642000046

黒板勝美編『日本後紀』新訂増補國史大系、吉川弘文館、1974年、ISBN 4642000054

坂本太郎・平野邦雄監修『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館、1990年、ISBN 4642022430

高島正人「奈良時代中後期の藤原南家」『奈良時代諸氏族の研究』所収、吉川弘文館、1983年、ISBN 4642021183


脚注^ 尊卑分脈による。同書には「或本武良自云々」とあり、良因の名は正史に見えないが、藤原武良自または武良士・武良志は続日本紀に見える。最高位が従五位下であり、早世したか、良因の名から出家した可能性もある。高島正人「奈良時代中後期の藤原南家」『奈良時代諸氏族の研究』243頁。
^ 公卿補任・尊卑分脈によれば良因・継縄・乙縄の母はいずれも路真人虫麻呂の娘であり、縄麻呂の母を藤原房前の娘とする。ただし続日本紀では豊成の夫人は京家の祖藤原麻呂の娘百能とされており、はっきりしない。
^ 四男の縄麻呂はすでに749年(天平勝宝元年)に20歳で従五位下に叙されているが、これは上述のように縄麻呂の母の身分が高く、縄麻呂が嫡子として扱われた可能性があるのと、その後の藤原仲麻呂政権下で父と共に権力から排除されていたからであろう(高島正人前掲書250頁)。
^ 坂上康俊『律令国家の転換と「日本」』日本の歴史第05巻、講談社、2001年、32-33頁、ISBN 4062689057
カテゴリ: 藤原南家 | 奈良時代の人物 | 平安時代の公家 | 727年生 | 796年没

更新日時:2008年7月6日(日)00:00
取得日時:2008/09/01 17:11


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki