藤原實頼
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人物

有職故実に詳しく、父忠平の教命を受け(忠平の教命は、実頼が『小野宮故実旧例』として纏めた)、朝廷儀礼のひとつである小野宮流を形成した。なお、実頼の流派が小野宮流と呼ばれる所以は彼の邸宅名による。また、和歌に秀で、歌集『清慎公集』があり、『後撰和歌集』等の勅撰集に彼の和歌が採録されている。ほかにの名手として知られ、特に筝は醍醐天皇より学んでいる。

実頼は、日記『清慎公記』(『水心記』ともいう)を著していたことが『小右記』等の逸文によって知られる。なお、藤原公任が『清慎公記』の部類記を作成する際に書写せず原本を直接切り貼りしたため、部類記収録以外のものは反故になってしまい、元来の所持者であったと考えられる公任の従兄弟の藤原実資(公任・実資とも実頼の孫)の憤激を買っている(『小右記』寛仁4年8月18日条)。その部類記も長和4年(1015年)の藤原教通邸焼亡の折に焼失したため現存していない。また、同じく公任の『北山抄』に度々引用されている「私記」も『清慎公記』のことと考えられている(なお、実頼は父・忠平の『貞信公記』に注釈を加えた際に自己の記述も「私記」と記しているが、『北山抄』引用の「私記」には忠平が第三者として登場することから、実頼自身は『清慎公記』の事も「私記」と称していたと考えられている)。

実頼は摂関を歴任しているものの天皇との外戚関係を結ぶことができず、自らを揚名官(名前だけの名誉職)の関白という意味で「揚名関白」と称している。また、『栄花物語』が、師輔を、「一(実頼)苦しき二の人(師輔)」と実頼とを比較して評していることから、実頼の政治的実権が乏しく、村上天皇朝においては師輔、冷泉円融天皇朝においては両天皇と外戚関係にあった師輔の子藤原伊尹藤原兼家等が実権を掌握したと捉えられている。しかし、村上天皇朝においては、太政官符宣旨発給の責任者である上卿(しょうけい)の回数が師輔と較べて多いことや、冷泉天皇即位式の際、通常大極殿で行うべきところを、天皇御悩のために紫宸殿挙行に変更させたことなどを考慮すると、実頼の政治的実権は乏しかったとするのは穏当ではなく、更に議論が必要であろう。


逸話

実頼は私邸の南庭で出る時、常に冠をかぶっていた。人がこれを怪しんで聞くと、稲荷山が南庭から望まれ、敬して威儀を正しているのだと答えた。もしも、これを忘れれば袖で頭を隠して邸内に駆け入っていた。彼の謹直なることかくの如し。(『大鏡』)

実頼の幼名が「牛養(うしかい)」であったため、実頼の一族は牛車の牛を扱う「牛飼童(うしかいわらわ)」のことを、「牛つき」と呼んだ(『大鏡』)。

異母弟の師輔が長身であったのに対し、実頼は背が低かった。そのため、糊のきいた強装束を用いていた(『富家語談』)。

平将門追討の将軍であった藤原忠文は、東国到着以前に乱が決着したためそのまま帰京した。その論功行賞について、「賞の疑はしきはゆるせ」と主張する師輔に対し、実頼は「疑はしきことをば行はざれ」と主張し通して恩賞を出さなかったので、忠文の恨みをかった。そのため忠文の怨霊によって実頼の子孫が繁栄しなかったといわれている(『古事談』)。

実頼の邸宅小野宮第は、もとは文徳天皇皇子惟喬親王の邸宅であり、双六賭博の質種として得たものであるといわれている(『古今著聞集』)。

実頼は小野宮第の大炊門前に菓子を置き、それを食べる京の民衆の雑談を聞いて世情を知った(『古事談』)。

小野宮第の四足門に菅原道真の霊が来て、実頼と終夜対談したといわれている(『富家後談』)。

師輔の亡霊が生前実頼家の子孫断絶の祈願をしたことを語ったという話を、実頼孫藤原実資が観修僧都から聞き、「骨肉と云ふと雖も、用心あるべきか」と述べた(『小右記』)。

村上天皇の御前で、実頼が、師輔と醍醐天皇皇女康子内親王の密通を暴露した(『大鏡』『中外抄』)。『栄花物語』に「いとたはしき(淫しき)」と評価される程、師輔が好色であったのに対し、実頼が当時の貴族としては珍しく堅物であったという。また、『中外抄』(藤原忠実の語録)は、摂関家の言い伝えとして「九条殿(師輔)は、まらのおほきにおはしましければ」という記述がある。

実頼薨去の折、諸人が小野宮第の門前に集まって挙哀した。(『富家語談』)


系譜

父:藤原忠平(880-949)

母:源順子(875-925)(父:宇多天皇


妻:藤原時平

長男:藤原敦敏(912-947)

二男:藤原頼忠(924-989)

三男:藤原斉敏(928-973)

三女:藤原述子(933-947)(村上天皇女御)


妻:源氏某(?-936)

妻:藤原仁善子(?-964)(父:藤原定方

生母不明

長女:藤原慶子(?-951)(朱雀天皇女御)

二女:源高明室(?-947)





養子:藤原佐理(944-998)(敦敏男)

養子:藤原実資(957-1046)(斉敏四男)


官歴

※月日は旧暦。特に指示のない限り『公卿補任』の記載による。

年紀事歴
延喜15年(915年)正月21日、叙爵。9月23日、昇殿。
延喜16年(916年)3月28日、阿波権守。
延喜17年(917年)5月24日、右衛門佐。
延喜18年(918年)9月9日、次侍従<異本公卿補任>。
延喜19年(919年)正月28日、右近衛権少将。
延喜20年(920年)9月21日、備中権介。
延喜21年(921年)正月7日、従五位上。正月30日、備前介を兼任。
延喜22年(922年)正月30日、近江介を兼任。
延長4年(926年)正月7日、正五位下。2月25日、蔵人。
延長5年(927年)正月12日、紀伊権守を兼任。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki