外輪のアイデアはローマ時代からあった事が確認されているが、人力動力ではオールの方が適していた。
初期の蒸気船は、船の側面か後ろに石炭を燃料としたレシプロ機関の力によって動く外輪、または外車とも呼ばれる大きな推進器を持った外輪船、外車船(パドル・ホイーラー)であった。この外輪船は正しくパドルで水面を掻くために喫水を一定に保つ必要があったが、水深が浅くても走れるため穏やかな河や海岸を航行するには適していた。しかし、外海では波浪や流氷などで外輪が破損したり、駆動軸の接続に便利な船体左右の外輪では左右の推進力が波によって一定に伝わらない、大量に消費する石炭を積む必要がある、といった問題があり適していなかった。その後、給炭地の整備や蒸気機関の改良などによって航続距離が伸びて外海を横断できるようになった。
1829年にフランスのエリアン・ガロウェーは、パドルが常に垂直になるように改良した外輪を考案した。Napoleon (1850)
フランス蒸気戦艦
商船は早い段階で外輪による蒸気船(パドル・スチーマー)へと替わって行ったが、軍艦に蒸気機関が採用されたのが遅かった。船体側面の目立つ場所に大きく露出した脆弱な外輪では敵の攻撃を少しでも受ければ容易に被害を受けて艦の推進手段を失うとされたためや、舷側を外輪が占めると当時の有力な攻撃手段であった大砲の砲門を設ける余地が限られるためであった。軍艦が蒸気機関を採用するのはスクリュー・プロペラが一般に認められてから後となる。
戦闘において外輪蒸気軍艦が片側の外輪を使えなくても、実際に起きた2隻の例で両方ともが速力を減じながらも遜色なく自力航行が可能であった。
商船でも船の中央を蒸気機関に占領されていたため、船倉は前後の空いた空間が燃料の搭載と共に使われた。
18世紀末頃から19世紀初めにかけて、多数のスクリュー・プロペラが考案されたが実用には用いられなかった。
イギリスのフランシス・ペティ・スミスが1836年5月31日にスクリュー・プロペラの特許を取り、「フランシス・P・スミス」号(6トン)を造り2ピッチの長いスクリュー・プロペラでの実験を始めた。偶然水中でプロペラが破損した後で船速が上がり、この後、1ピッチのものに変更して5.5ノットまで速度を上げられた。出資者が得られたため、シップ・プロペラ社を設立して本格的なスクリュー船の建造を始めた。スミスはその後、ラトラー号のスクリュー・プロペラを設計する。
同時期に、スウェーデン人ジョン・エリクソンはスミスの6週間後に特許を取り、翌1837年に船長14mの「フランシス・B・オグデン」号を造ってロンドンのテムズ川で100トンの石炭はしけ4隻を5ノットで曳いて見せた。英海軍高官は水面下で推進軸のための穴を嫌い、直進性が欠けているはず、風に対して不安定という評価によって軍艦へは不採用となった。
翌年の1838年には36トンの「ロバート・F・ストックトン」号を造ったが、イギリスでは進展が得られなかったため、1839年に帆走によって米国へ渡った。ストックトン号はプロペラを2つから1つに改造を受けた後、デラウェア川の曳き船となった。エリクソン自身はその後、米海軍の造船に協力した。
その後、徐々にスクリュー・プロペラを備えた船が造られるが、まだ帆船が主体であり、蒸気船でも外車によって推進されるものが主体であった。1850年の船舶総トン数では帆船9に対して蒸気船1の比率であった。シリウス号
1845年3月、英国海軍はスクリュー・プロペラと外輪の性能比較を行なうため、 スクリュー・プロペラを備えた867トンの「ラトラー」号と800トンの外輪蒸気軍艦「アレクト」号を風向きや帆走併用など条件を変えて競走させた。いずれもラトラーが勝ち、最後に綱引きを行なわせた結果、ラトラーが2.8ノットでアレクト号を曳航したことで、ラトラーのスクリュー・プロペラが有効であると結論付けられた。当時、英国海軍では既にスクリュー艦「エイジャックス」号の建造を開始していたので、ラトラー対アレクトの対決は英国海軍本部の巧みな演出であった可能性がある。この後、半ば見世物として同様の実験・実演が繰り返された。
エイジャックス号は2層甲板に大口径砲を60門も備える戦列艦となり、450馬力で7ノットだった機関は後に800馬力42ノットへと改修された。
19世紀の大半と20世紀の前半にミシシッピー川で行われた貿易は、外輪式蒸気船によって行われた。現在も残っている船は僅かで、殆どの船は酷使によるボイラーの爆発か火災で消失している。
1900年の船舶総トン数では帆船4に対して蒸気船6の比率であった[1]。
蒸気タービンの登場水管式蒸気ボイラー(断面図)
1.煙路 2.予熱部 3.上下水タンク 4.加熱水管
19世紀末、チャールズ・アルジャーノン・パーソンズによって蒸気タービンが開発された。
20世紀初頭まではレシプロ式の蒸気機関を搭載した大型船が建造されてきたが、第一次大戦後は次第にタービン式が主流となる。
蒸気タービンはレシプロ式蒸気機関に比べ振動・騒音が少なくて熱効率が高いという特徴がある。レシプロ式では3段膨張式があったが、タービン式であれば蒸気の膨張を最大限に利用できるので優れている。各タービンでは逆回転は出来ないために、逆転用タービンを備えるか、可変ピッチスクリューによって逆進を行なうことが多い。
蒸気ボイラーは当初、煙管式が主流であったが、高圧化が進むにつれ水管式が主流になる。水管式は水垢(スケール)の付着を防ぐ為に供給する清水の品質管理が求められる。タービンを回転させた蒸気は海水によって冷却された復水器によって再び液体に戻され蒸気ボイラーで循環使用される[2]。
黒船来航黒船
2度目に来航した「ポーハタン号」(USS Powhatan)
1853年7月8日、浦賀沖に現れた4隻の米国海軍の軍艦は2隻の外輪蒸気軍艦「サスケハナ」、「ミシシッピ」が2隻の帆走軍艦「サラトガ」、「プリマス」を曳航して江戸湾内へ侵入してきた。4隻の蒸気船という表現は誤りである。また、日本語では「ペリー艦隊」であるがフリート(Fleet)ではなくスクワドロン(Squadron)であるため、細かい訳では「小艦隊」が正しい[1]。
翌1854年、ペリー提督は再び3隻の外輪蒸気軍艦「ポーハタン」(旗艦でパウハタンとも呼ばれる)、「サスケハナ」、「ミシシッピ」、と「プリマス」等の6隻の帆走船と共に浦賀沖に現れた。
推進機関のディーゼル化や「ガスタービン化が進み、蒸気によって推進する船は比較的少数の限られた船種や艦種だけになっている。
大型LNGタンカー
LNGタンカーの登場初期から輸送貨物であるLNGが輸送中に蒸発した天然ガス(ボイルオフガス、BOG)を蒸気タービンエンジンの燃料とされてきたが、21世紀初頭現在ではLNGの価値が高まったために、BOGの再液化によって輸送液量を減らさず、他の大型貨物船と同様にA重油やC重油を使った低速回転ディーゼル・エンジンを採用する船が多くなってきている[3]。