蒋介石
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日本蒋介石を日本亡命中に庇護していた犬養毅頭山満とともに(1929年)

?介石は日本の高田の砲兵学校で軍事教育を受け、日本に亡命した際には日本政財界による支援で清朝打倒に奔走するなど日本との関係が深かった。

南京事件1927年、蒋介石率いる中国国民革命軍(革命というのは、共産革命ではなく三民主義に基づく革命)が南京に入城すると、革命軍の一部が日・英・米などの領事館を襲撃するという事件が起きた。英米の軍隊がこの行為に対して徹底的に反撃を加えたのに対し、日本は死者を出しながらも無抵抗を貫いた(幣原平和協調外交)。しかしこの政策は裏目に出て、むしろ中国側が日本を侮るようになってしまった。この事件は主に中国軍兵士によるものであるが、日本においては「蒋介石の侮日政策」として知られるようになる(後にソ連公館から張学良軍が押収した文書等から判断すると中国共産党の扇動の可能性が強い)。

蒋介石は日本軍との戦いには消極的で、むしろ中国共産党を警戒していた。しかし張学良による西安事件が起こり、共産党と協力して、日中戦争から1945年までは日本軍と戦う事となった。その当時の自身の日記では日本を「倭」と表記し終始蔑んでいた。

日本の敗戦後は、「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と称して日本兵の中国大陸からの復員に最大限の便を図った。これは当時中国に駐留する日本軍が強力で、戦争中の国民政府軍(兵力は日本軍を上回っていた)が連戦連敗であったため、なるべく刺激せずに穏便に撤退させたかったというのが真相のようである。但し、この撤退については後述するように蒋介石を好意的に評価する日本人もいる。

日本に関するエピソードにはほかに以下のようなものがある。

日本を連合軍が分割占領することや天皇制廃止には消極的だった。日本のことを熟知していた蒋介石は、ルーズベルト大統領からしばしば意見を求められている。「日本の起こした戦争の主犯者は、日本軍閥であるから、日本の国体問題に対しては戦後の日本国民自身が解決すべきであると考える」と述べている。(日本の占領政策に関するルーズベルトとの手紙のやりとり)


終戦時に中国にいた日本人の数は、軍人120万人、民間人80?90万人で、復員・引揚には数年を要すると言われていたが、蒋介石の便宜により10ヶ月で復員・引揚を完了させている。しかし、BC級戦犯として、多くの日本軍人を処刑したのも蒋介石の政府であった。


カイロ会談では、中華民国は日本に進駐する考えのないことを表し連合国側の占領政策を変えさせた結果、ソ連の北海道進駐を阻止する重大な起点になった(カイロ会談において、日本の分割統治計画があった)。もっとも、蒋介石は、戦後の国共内戦の勃発を予想しており、兵力を日本占領に割くことをためらっていたという説もある。兵力の不足は、台湾の占領が漸く10月になってからであったことや、陳儀長官と共に台湾へ渡った中国軍のレベルが低かったことなどからも十分想像できる。


文化や習俗の面で、非常に日本を尊敬していた。寒い冬の朝でも冷たい水で顔を洗う(中国人にはこのような習慣はない)日本人の話を聞いて、感心したという。また、明治天皇を尊敬しており、戦後も総統代理として蒋経国を明治神宮へ公式参拝させている(許國雄著『台湾と日本がアジアを救うー光は東方より』明成社ほか)。


第二次大戦中に、日本軍が拉孟・騰越で連合軍の大軍(拉孟では32倍・騰越では25倍)を相手に戦い、それぞれ味方の6倍の損害を与えて玉砕したことを讃え、「東洋道徳の範とせよ」と中国軍に訓令を発している(相良俊輔著『菊と龍』光人社ほか)。


戦後、台湾へ移ってからは、富田直亮中将を団長とする旧日本軍の将校団(白団)を招き、国府(中華民国国民政府)軍を秘密裏に訓練させた。米国政府はこれを厳しく非難し、国府軍内にも反対の声が挙がったが、蒋介石は白団による教育訓練を断固推進した。1949年10月、中国人民解放軍が金門島等へ大挙侵攻をはかった際は、旧日本軍の根本博中将(終戦時に張家口でソ連の大軍を迎撃撃破し、在留邦人を無事避難させたことで有名)らが国府軍を作戦指導し、人民解放軍を完膚なきまでに撃破している(中村祐悦著『白団ー台湾軍を作った日本軍将校たち』芙蓉書房ほか)。


中華人民共和国

蒋介石とは大陸で内戦を戦い、中華民国が台湾へ移った後も海峡を挟んで長らく対立していたため、その評判はすこぶる悪かった。しかし、国民党の台湾化が進み、民主進歩党などの野党が結成され、台湾独立運動が盛んになってくると、蒋介石の役割が再評価され始めた。これは、生前の蒋介石が「反攻大陸」を国是とし、共産党とは別の立場から「一つの中国」を主張していたため、蒋介石の評価を高めることによって「台湾独立」を牽制する狙いがあると見られている。


人物

陽明学の信奉者である。戦後にGHQが安岡正篤を戦犯に指定しようとした際に、蒋介石が反対したとも言われている。遺されている小物や衣服、写真を見てわかるとおり、公式の場で特注の軍服などを着用していたものの、プライベートでは派手好きな妻と反対に非常に質素な生活を好み、静養地でも読書に耽っていたり、妻と茶などを楽しむ程度だった。現在中正紀念堂に展示されている物の殆どは外国から贈られた勲章や孫文から与えられた掛け軸がほとんどである。


蒋介石にちなんだ事物


台湾中正紀念堂200元紙幣

中正国際空港 - 桃園県にある台湾省最大の国際空港で、英語では蒋介石の英語表記の略をとりC.K.S airport と呼ばれた。2006年、台湾桃園国際空港に改称された。

中正紀念堂 - 蒋介石を記念し、彼の没後に台北市中心部に作られた記念館。

慈湖紀念雕塑公園 - 台湾の民主化に伴い、次々と撤去され始めた蒋介石像を収集して展示している公園。蒋介石の遺体が安置された慈湖にある。現在も台湾全土から集められ、その数は200体近くに上ると言われている。

中正路 - 中華民国の一般的な道路の名前。おおむね都市の中核的な路線にその名が振られる。

紙幣 - 没後の1980年から、台湾元の高額紙幣に?介石の肖像が使われてきた。

李登輝政権末期から準備され、政権交代後の2000年以降発行された現行設計の紙幣でも、高額紙幣では科学技術・教育・スポーツを象徴する絵柄に取って代わられたものの、5券種中4番目にあたる200元紙幣に描かれている。ただし、日本の2000円札同様、市中での流通量は極めて少ない。なお、10元、5元、1元硬貨にも蒋介石が描かれている。


日本国内

箱根彫刻の森美術館中正堂 - 箱根 彫刻の森美術館内にある。蒋介石からの恩義を日本の青年が未来永劫忘れないことを目的としてフジサンケイグループによって建てられた。

中正神社 - 蒋介石が、日本が敗戦した際に寛大な処置を取り、復員に便宜を図ったことなどを讃えるため建立。(愛知県幸田町

蒋介石頌徳碑- 横浜市内の伊勢山皇大神宮内生誕100年記念に建立、傍に 統一教会幹部の助野健太郎による由緒書きがある。

中正堂会館- 日華文化協会が入居している。(港区南麻布 1968年竣工)



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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki