蒋介石
話題の着エロボイス!
今なら無料ダウンロード♪

[Wikipedia|▼Menu]

5 「蒋介石」という呼び方

6 日本の保守派の蒋介石観の変遷

7 参考文献

8 注釈

9 関連事項

10 外部リンク

//


生涯

蒋介石の生涯については、多くの書物が出版されているが、虚偽の記述も多数散見され、2008年現在でも各国の蒋介石研究は混乱している。

蒋介石は、1887年に清国の奉化で塩商人の蒋肇聰と王采玉の間に生まれた。成人後は日本東京振武学校へ留学した(当時は中村という日本名を名乗っていた)。その後辛亥革命に関わったことで孫文からの信頼を得たという話があるが、孫文はそれほど積極的に蒋介石を信頼してはいなかったとも言われている(黄文雄著『蒋介石神話の嘘』明成社ほか)。蒋介石は、ソ連の支援で設立された黄埔軍官学校校長となり、1925年の孫文死後は後継者争いがあったが、1926年中山艦事件以降に国民党軍を掌握し、北伐を完成させ、1928年に中華民国の主席となる。

中国共産党とは、いわゆる「上海クーデター」以降敵対関係にあったが、西安事件により第二次国共合作を強いられ、アメリカソ連の協力を得て日中戦争を戦い抜いた。日本が敗戦した1945年以降に再び中国共産党との間で国共内戦が勃発。1949年に共産党に敗北し台北に遷都(台北は臨時首都)。その後1950年に中華民国総統に就任。1975年に死去するまで総統の地位にあった。

第一次国共合作の頃は、「赤い将軍」として共産主義を礼賛していたが、「上海クーデター」以降は反共主義者となり、日中戦争勃発の前は抗日闘争よりも共産党を弾圧する政策を優先した。しかし、スターリンは、毛沢東よりも蒋介石を高く評価していた(黄文雄著『蒋介石神話の嘘』、倉前盛道著『悪の論理』ほか)と言われ、毛と中国共産党を犠牲にしても蒋介石を通じて、中国を赤化させるつもりであったという説もある。実際、西安事件の際は、毛沢東は蒋介石の処刑を主張したというが、スターリンは許可しなかった。蒋介石の息子の蒋経国は(実質的な人質として)モスクワへ留学している。

辛亥革命前後に青幇に加入し杜月笙とは義兄弟の関係であり(蒋の方が位は下)、上海クーデターの際には青幇の協力を得て共産党員の大量殺害をおこなった。その後も青幇の麻薬資金が蒋介石の経済的基盤となる。杜月笙の墓地には蒋介石揮毫による「義節聿昭」の牌がある。


孫文の継承

孫文は1925年3月12日に亡くなり、国民党には権力の空白が生まれた。権力闘争は国民党右派側にいた蒋介石と孫文の親しい戦友であり、党の左派側にいた汪兆銘との間で起きる。蒋介石は党内部での地位は比較的低く、汪兆銘が孫文の国民政府議長を継いだが、蒋介石は軍事力と中山艦事件からの政治工作によって勝利した。蒋介石は1925年国民革命軍の最高司令官に就任し、1926年7月27日には中国北部を支配する軍閥を駆逐して国民党の下に国家統一をなすための北伐と呼ばれる軍事行動を開始した。

北京に対して進攻をかける前に国民革命軍は三つに分けられ、西側は汪兆銘が一団を率いて武漢を、東側は白崇禧が一団を率いて上海を、蒋介石は一団を率いて中央で南京の支配が割り当てられた。しかし、1927年1月に、汪兆銘と彼の国民党左派同志は中国共産党及びソビエト工作員ミハイル・ボロディンと組んで大衆動員と歓呼の中、武漢を手中にし、国民政府は武漢に移ったと宣言した。3月に南京を攻略し(南京事件参照)、上海が親密な白崇禧の支配下になってからは、蒋介石は彼の軍事行動を停止することを強いられ、国民党の浄化及び左派との対決を決意した。

4月12日、蒋介石は何千に及ぶ共産主義者の容疑を持つ者たちへの迅速な攻撃を開始(上海クーデター)。彼は胡漢民を含む保守の同志の支持を受けて国民政府を南京に設立した。国民党から共産主義者は排除、ソビエトからの顧問は追放され、このことが国共内戦開始につながる。汪兆銘の国民政府は大衆に支持されず、軍事的にも弱体であり、まもなく蒋介石と地元広西の軍閥李宗仁に取って代わられ、結局汪兆銘と彼の左派グループは蒋介石に降伏し、南京政府に参加した。ついに軍閥拠点であった北京は1928年6月に支配下とされ、さらに12月には満州軍閥張学良が蒋介石政府に忠誠を誓約した。

蒋介石は、孫文の後継者としての彼自身の立場を確立するために演出を行った。1927年12月1日、蒋介石は政治的にかなり重要な相手である宋美齢(孫文の妻・宋慶齢の妹)と日本で結婚し、孫文の義理の兄弟となった。彼女の姉は孫文の未亡人である宋慶齢であり、蒋介石は前には宋慶齢に求婚したが即座に断られている(宋美齢の両親を喜ばせるために、蒋介石はまず彼の最初の妻及び愛人たちと別れ、結局キリスト教に改宗することを約束しなくてはならなかった。1929年に、彼はメソジストの教会で洗礼を受けている)北京に到達すると蒋介石は孫文に敬意を表し、彼の遺体を首都南京に運ばせ、壮大な霊廟(中山陵)で祭った。


年譜

1887年に奉化県渓口鎮に生まれる。

1902年毛福梅(当時19歳)と結婚。

1906年保定陸軍速成学堂で軍事教育を受ける。

1907年(明治40年)、渡日し陸軍士官学校へ留学する。

1909年大日本帝国陸軍に勤務。( - 1911年)

1910年蒋経国誕生。(後年、毛福梅は出家、離縁する)

辛亥革命に参加。後に孫文に認められ、国民党内右派の代表として頭角をあらわす。


完全無料エロボイス♪
「声」は興奮しますよ!

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:42 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki