江戸時代には、花押の使用例が少なくなり、印鑑の使用例が増加していった。特に百姓層では、江戸中期ごろから花押が見られなくなり、もっぱら印鑑が用いられるようになった。
1873年(明治6年)には、実印のない証書は裁判上の証拠にならない旨の太政官布告が発せられ(花押が禁止されたわけではない)、花押はほぼ姿を消し、印鑑が花押に取って代わることとなった。その後、押印を要求する文書については必要に応じて法定され、対象外の文書であっても押印の有無自体は文書の真正の証明に関する問題として扱われることに伴い上記太政官布告は失効した。しかし、花押に署名としての効力はあり、押印を要する文書についても花押を押印の一種として認めるべき旨の見解(自筆証書遺言に要求される押印など)が現れるようになった。また、政府閣議における閣僚署名は、明治以降、花押で行うことが慣習となっている。
21世紀の日本では、パスポート・クレジットカードの署名、企業での稟議、官公庁での決裁などに花押が用いられることがあるが、印章捺印の方が早くて簡便である為非常に稀である。
江戸中期の故実家伊勢貞丈(いせさだたけ)は、花押を5種類に分類しており(『押字考』)、後世の研究家も概ねこの5分類を踏襲している。5分類は、草名体、二合体、一字体、別用体、明朝体である(前三者は上記#略史を参照)。
別用体とは、文字ではなく絵などを図案化したものをいう。
明朝体とは、上下に並行した横線を2本書き、中間に図案を入れたものをいう。明朝体は、明の太祖がこの形式の花押を用いたことに由来するといわれ、徳川家康が採用したことから徳川将軍に代々継承され、江戸時代の花押の基本形となり、徳川判とも呼ばれた。
上記の他、次のような分類がある。
公家様と武家様(上記#略史参照)
禅僧様(鎌倉期に中国から来日した禅僧が用いた様式。直線や丸など形象化されたものが多い。)
^ 一説には、「秀吉」を音読みにして「しゅうきつ」とし、その最初と最後の一文字を合わせて「しつ」に由来するといわれている。
中国の花押の起源は、文献(高似孫『緯略』)によると南北朝時代の斉にまで遡ることができる(秦や晋の時代とする説もある)。唐代には韋陟の走り書きの署名があまりに流麗であったので「五朶雲(ごだうん)」と称揚された(『唐書』韋陟伝)。この署名は明らかに花押のことである。中国では現存する古文書が少ないこともあり、花押の実態は必ずしも明かではない。宋代の文書に記されている花押は、直線や丸を組み合わせた比較的簡単なものであり、日本の禅僧様もこの形式である。また、明の太祖が用いたとされる明朝体は、日本に伝わり、江戸時代の花押の主流をなした。
なお、五代の頃より花押を印章にした花押印が使われ始め、宋代には花押印そのものを押字あるいは押と呼称した。元朝では支配民族であるモンゴル人官吏の間でもてはやされたが、これを特に元押という。モンゴル人官吏は漢字に馴染めなかったようである(陶宗儀『南村輟耕録』)。花押印は明清まで続いたが次第に使われなくなった。
イスラム圏では、装飾的なアラビア書道(カリグラフィ)が発達した。特にオスマン帝国のスルタンのみに許された非常に壮麗な署名はトゥグラと呼ばれ、イスラム文化を代表する芸術作品の一つとされている。
外部リンク
⇒歴代総理の写真と経歴・・・ ⇒首相官邸HP。歴代総理大臣の花押
⇒花押総覧 歴史上の著名な花押の一覧
⇒花押の作品展 第1回鶴川流花押展(2007年5月)出展作品
(P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
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更新日時:2008年9月14日(日)01:29
取得日時:2008/10/01 20:20