舞鶴市
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舞鶴藩祖・京極高三

戦後は京極高知信濃飯田藩より入り、丹後一国を領する丹後藩として加佐郡(舞鶴)も統治した。後に京極高知の子らにより丹後は分割され、京極高三京極道誉の末裔)が加佐郡に舞鶴藩田辺藩)(35000石)を立藩した。京極高三は宮津城の築城にともない廃城(一国一城令)となっていた舞鶴城(田辺城)の再構築や、城下町の整備などを行い、その後の舞鶴発展の礎を築いた。のちに京極家は但馬豊岡藩へ移封となり、その後は京極高三の娘婿である牧野富成が丹後田辺藩を継ぎ、牧野家35000石の城下町として幕末まで栄え続けた。


明治から第二次世界大戦まで1933年(昭和8年)に行われた昭和天皇の舞鶴行幸。舞鶴鎮守府を訪問。

明治維新翌年の1869年明治2年)に版籍奉還が行われ、その後、紀伊田辺藩との同一藩名を解消するため太政官より田辺藩の名称変更を命じられ、同年6月に田辺城の雅号・舞鶴城に因んで舞鶴藩に改称した。1871年(明治4年)には廃藩置県により、西舞鶴は舞鶴県の県庁所在地となったが、同年10月には豊岡県に編入され、1876年(明治9年)に京都府へと編入された。

1873年(明治6年)には舞鶴藩の家老であった河村真六によって、舞鶴藩の藩校であり多くの学者を輩出した明倫館が明倫小学校として開校し、1889年(明治22年)に市町村制が導入されると加佐郡舞鶴町(西舞鶴)が誕生した。その後1901年(明治34年)10月には、軍事的要地として東舞鶴に舞鶴鎮守府が設置され、初代長官には東郷平八郎が就任した(東郷が生み出したとされる肉じゃがは、一説には東舞鶴が発祥地とされる)。それに合わせ東舞鶴の浜村などでは大規模宅地開発が計画され、京都市に模して碁盤目状の市街地が形成され(南北に一条から九条、東西に軍艦の名前が使われる)、多くの海軍官署が設置された(日本海軍の駆逐艦雪風』は舞鶴での建造である)。

軍都として順調に発展を遂げた舞鶴であったが、1923年(大正12年)2月のワシントン海軍軍縮条約締結に伴い、舞鶴鎮守府は海軍要港部に格下げされ、同時に海軍工廠も工作部に縮小され、一時期人口が減少、市況は沈滞した。同年9月には関東大震災で被災した横須賀市にあった海軍機関科士官を養成する海軍機関学校が移設されることになり、1936年(昭和11年)7月には、再び舞鶴要港部が鎮守府に格上げされると、活況を呈し、人口はピークに達した。現在でも舞鶴市内にいたる所に海軍の遺跡が存在する。

1943年(昭和18年)になるといよいよ戦局が激化すると、舞鶴鎮守府は日本海軍の重要拠点として強化される事となり、東舞鶴市(東舞鶴地区)だけではなく、旧舞鶴市(西舞鶴地区)にも海軍諸施設が多数立地するようになった。また舞鶴海軍工廠では艦船を中心に蛟龍などの特殊兵器も生産するなど軍需生産拠点としても機能強化が図られ、両市が一体となって大軍港都を建設することを海軍が強く要請。旧舞鶴市側は難色を示すが、市役所の位置など諸条件を提示、東舞鶴市も了承したことから、「時局ノ要請二応ジ大軍港都市建設ノ為」すべて京都府知事に一任し、舞鶴市海軍記念日にあたる同年5月27日に東西舞鶴両市は合併した。市役所は東舞鶴市中舞鶴支所に置かれることとなり、人口は15万人を超え、日本海側有数の大都市として重要な地位を占めるに至った。

戦線が激化するにつれ、舞鶴は後方支援都市として軍需産業が勃興し、人口も増加したが、1945年(昭和20年)7月29日、突如としてアメリカ軍が来襲、海軍工廠を中心に舞鶴を空襲した。また翌日も舞鶴港を中心に大規模な空襲に見舞われ、多数の死傷者を出した。

1945年(昭和20年)8月15日、終戦。

戦後はアメリカ進駐軍舞鶴分遣隊が駐屯、舞鶴港が政府の在外邦人引き揚げ港に指定され、大陸からの引き揚げの拠点となった。1945年昭和20年)から13年に渡って66万人余りの引揚者が舞鶴に降り立ち、懐かしの母国の土を踏みしめた。その頃の岸壁の母は有名。現在は、当時の引揚桟橋があった平に、舞鶴引揚記念館が建っている。


戦中から東西分離運動軍需物資を運ぶために建設された旧中舞鶴線。(現在は跡地に遊歩道が整備されている)

舞鶴は日本海側唯一の軍事都市として、軍事施設が両舞鶴市に跨がるように設置されるなり、軍都一括管理の重要性が増した。そこで1943年(昭和18年)に海軍は東西両舞鶴市に合併を要請し、それを受けて(旧)舞鶴市と東舞鶴市が1943年5月27日合併。新しい舞鶴市が誕生した。当時の人口は154,953人。

しかし、前述のように、城下町・商業都市として発展し、加佐郡の中心都市と自負する(旧)舞鶴市(西舞鶴)と、鎮守府が設置され、軍需都市として発展した旧東舞鶴市(東舞鶴)では、住民気質が全く異なり、舞鶴市東西分離運動が活発化した。同時期、戦時体制下に軍により進められた市町村合併の見直しを認める法改正があり、1949年(昭和24年)11月に西舞鶴地区より東西分離要請書が提出されるに至った。1950年(昭和25年)3月には西舞鶴地区にて住民投票が行われ、賛成7,046票、反対6,070票、棄権4,483票と賛成多数で舞鶴市をふたたび東西に分割する案が決議された。京都府議会は「京都北部の中心都市としてだけでなく、府下の唯一の大港湾都市建設に万進すべき」との決議を採択し、東西分離案を否決した。


加佐町編入から現在日本海の要となる舞鶴海上自衛隊

1957年(昭和32年)に舞鶴市と関係の深かった加佐郡加佐町を編入して現在の舞鶴市が形成され、国政調査において初めて人口が10万人を超え、京都府内では京都市に次ぐ規模の都市になり、北近畿の中核都市としての地位を確立した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki