日本海に面し、東西に分かれた舞鶴湾のリアス式海岸を臨む都市である。舞鶴湾口を東西から博奕岬と金ヶ岬が固めた、天然の良港である。
福井県(嶺南)との県境には、舞鶴市最高峰である青葉山[1]が所在し、若狭湾から市内東北部に位置する大浦半島にかけては若狭湾国定公園に指定されている。
市の中部には、東部(東舞鶴)と西部(西舞鶴)を分ける五老岳が峙えているため、市街地も東西で分かれて発展している。東舞鶴はかつての軍需都市で、旧軍港や造船などを中心とする重工業地区である。一方、西舞鶴はかつての城下町で、国や京都府の行政機関や工業団地が集中する商工業地区である。このように同じ舞鶴市ながら違った顔を持っており、(旧)舞鶴市と東舞鶴市以来の「東西舞鶴の張り合い気質」が今でも残っている。
西舞鶴の市街地のさらに西側に位置する由良川を境に、天橋立で有名な宮津市などと接している。
総面積が10,320haながら宅地面積は1,143haあり、山林面積は6,410haと山地が多く、森と海に囲まれた都市である。またオオミズナギドリの最後の楽園といわれる冠島は有名。
市内をJR舞鶴線・小浜線が横断し、市西部には北近畿タンゴ鉄道宮津線が走っている。また舞鶴若狭自動車道がある。現在、東舞鶴駅と西舞鶴駅では駅前再開発が行われている。
日本海側気候に属し、冬季は北西の季節風の影響で気温が低く、雨や雪が多くなりやすいが(代表的な格言:「弁当忘れても傘忘れるな」)、盆地に位置する地域と比べると夏と冬の気温の差が比較的小さく、過ごしやすい気候でもある。舞鶴市の年間平均気温は14.3℃、年間降水量1786.3mm[2]は、全国152気象台の平均値に近い数値である。
舞鶴の地に人が住み始めたのは約1万年前だと言われている。その後、弥生時代になると由良川流域など広範囲で稲作が営まれた。古代に国造が分立した時代には、舞鶴は丹国の領土に入っていた。ヤマト王権が勢力圏を拡大すると、奈良時代に丹国は分割され、舞鶴は丹後国加佐郡に入れられた。
南北朝時代には、醍醐寺の荘園が置かれた。室町幕府の成立によって一色満範が丹後国守護職となり舞鶴を含む加佐郡も一色家の統治下に置かれた。以後、丹後国は一色家の領国として代々続く。室町時代後期の応仁の乱において西軍に属した一色氏は没落し、細川氏や若狭武田氏の攻撃をたびたび受けるようになり、家臣の下剋上もあって国内は混乱する。
戦国時代末期の1575年、織田信長から丹波・丹後進攻の命を受けた家臣の明智光秀と細川藤孝らに侵攻され、旧守護職の一色義道は殺され、一色氏は完全に没落した。信長の命により丹後国は細川藤孝の領地となり、舞鶴が本拠地となった。(明智光秀は丹波国を与えられ、亀山(亀岡)を本拠地とした)。細川家の手によって舞鶴は開発され、本能寺の変後も細川家の所領は安堵され、そのまま統治した。
1600年(慶長5年)に勃発した関ヶ原の戦いで、細川家は徳川家康率いる東軍に与した。細川藤孝は当時は小城であった宮津城から、大規模な水堀もあり、守りやすい本城の田辺城(舞鶴城)に移り籠城(田辺城の戦い)。西軍の派遣部隊と対戦したが、後陽成天皇の勅命により、城を敵明け渡した(詳細については細川藤孝の項目を参照)。
戦後は京極高知が信濃飯田藩より入り、丹後一国を領する丹後藩として加佐郡(舞鶴)も統治した。後に京極高知の子らにより丹後は分割され、京極高三(京極道誉の末裔)が加佐郡に舞鶴藩(田辺藩)(35000石)を立藩した。京極高三は宮津城の築城にともない廃城(一国一城令)となっていた舞鶴城(田辺城)の再構築や、城下町の整備などを行い、その後の舞鶴発展の礎を築いた。のちに京極家は但馬豊岡藩へ移封となり、その後は京極高三の娘婿である牧野富成が丹後田辺藩を継ぎ、牧野家35000石の城下町として幕末まで栄え続けた。
明治から第二次世界大戦まで1933年(昭和8年)に行われた昭和天皇の舞鶴行幸。