敗戦後、興安丸は1945年9月?1947年4月に仙崎・博多?釜山間に就航し、海外邦人の引き揚げ、在日コリアンの帰国輸送などに当たる。引き揚げ者が上陸した仙崎漁港には、跡地の記念碑がいまも残り、記念碑には興安丸の活躍が記されている。1947年12月下関市で天皇全国巡幸時の御宿泊所とされた。1948年4月関釜連絡船は公式に閉鎖された。 1950年3月朝鮮郵船(後の東京郵船→昭和郵船)に国家賠償に伴う補償として払下げ、1950年7月?1953年4月の朝鮮戦争時にはアメリカ軍に傭船され佐世保市?釜山の国連軍輸送に就航した。 1953年?1957年には政府の傭船により中国河北省秦皇島-舞鶴間、ソビエト連邦(現ロシア)ナホトカ・ホルムスク?舞鶴の引き揚げ船として日本赤十字社の救護班を乗せて延べ22回の活躍し、舞鶴港の「岸壁の母」の悲話で国民の胸を打った。
海上自衛隊は草創期から航空母艦の保有を志向し、大型商船改装の候補として興安丸も検討されたが、構想のみに終わった。結局1957年横井英樹の東洋郵船に売却され、1958年には東京湾遊覧船となったが、1959年?1967年にはインドネシア ジャカルタ-サウジアラビア ジッダのイスラム教巡礼船、インドネシア国内航路に転用され、この間1959年には北ベトナム(現ベトナム)ハノイ-東京間の引揚げにも従事した。 1970年11月広島県三原市で解体されて34年の生涯を終えた。きわめて強い保存運動があったが実現せず、錨の1つは三原市の内港東公園に、錨のもう1つとコンパスは下関市の火の山公園に、鐘が東京の交通博物館に保存されている。
参考文献
興安丸33年の航跡 森下研著 新潮社
鉄道連絡船100年の航跡 古川達郎著 成山堂書店
関連項目
鉄道省
朝鮮
海上自衛隊の航空母艦建造構想
外部リンク
⇒思い出の客船「金剛丸」「興安丸」(三菱重工業)
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更新日時:2008年6月13日(金)20:26
取得日時:2008/10/08 05:32