その後1886年星亨らによる大同団結運動で民権運動は再び盛り上がりを見せ、中江兆民や徳富蘇峰らの思想的な活躍も見られた。翌年にはさらに、井上馨による欧化主義を基本とした外交政策に対し、外交策の転換・言論集会の自由・地租軽減を要求した三大事件建白運動が起り民権運動は激しさを増した。これに対し政府が保安条例の制定や改進党大隈の外相入閣を行うことで運動は沈静化し、1889年の大日本帝国憲法制定を迎えた。翌1890年第1回総選挙が行われ、帝国議会が開かれた。以降、政府・政党の対立は議会に持ち込まれた。
しかしながら、大日本帝国憲法は国民の権利を、天皇が臣民に与えた「恩恵的権利」と定義し、権利制限の根拠を「法律ニ定メタル場合」「法律ノ範囲内」などのいわゆる「法律の留保」、あるいは「安寧秩序」に求めた。自由民権運動の真の成功は、これらの権利を永久不可侵の「基本的人権」と定めた日本国憲法施行を待たざるをえなかった。言い換えれば、当時相当先進的な内容であった大日本帝国憲法をもってしても自由民権運動の真意がかなえられる事は無く、1945年の太平洋戦争敗北後に、連合国軍最高司令官総司令部が行なった民主化政策でしか自由民権運動の成果は結実しえなかったのである。
関連項目
高知市立自由民権記念館
有司専制
爆発物取締罰則
福島事件
加波山事件
高田事件
群馬事件
飯田事件
名古屋事件
秩父事件
大阪事件
両備作三国親睦会
カテゴリ: 明治時代 | 明治時代の政治 | 日本の思想史 | 社会運動 | 政治運動 | 民主主義 | 自由民権運動
更新日時:2008年9月2日(火)12:59
取得日時:2008/09/06 17:12