1953年(昭和28年)2月28日、衆議院本会議における吉田首相のバカヤロー発言後、首相懲罰動議採決で欠席した自由党鳩山派は、その後の内閣不信任案の採決前に可決させんがために、自由党を離党して結成。正式名は分党派自由党だが、鳩山が党首であるので一般に鳩山自由党と呼ばれる。
総選挙後に鳩山を含む大半は吉田自由党に復党したが、三木武吉や河野一郎ら8名は復党せずに日本自由党を結成。
日本自由党(にほんじゆうとう)は、1953年11月に分党派自由党から自由党に戻らなかった反吉田茂派の政治家が中心となって結成。
結成にあたっては三木武吉・河野一郎・山村新治郎・池田正之輔・松田竹千代・中村梅吉・安藤覚・松永東が参加し、彼らは後に当時流行した映画『七人の侍』(1954年春公開)をもじって八人の侍と呼ばれるようになる。その後も三木は吉田打倒を画策し自由党内の非主流派や改進党を糾合、翌1954年11月の日本民主党結成を見た。
日本の政党
自由党
Lebrals
成立年月日1994年4月
解散年月日1994年12月9日
解散理由新党移行のため
後継政党新進党
政治的思想・立場新自由主義、保守主義
表・話・編・歴
1994年4月 - 渡辺美智雄の首班指名を目指し、自由民主党の国会議員が離党し結成。
同年12月 - 新進党結成に伴い解散。
細川護熙内閣の退陣に際して、後継総理として野党・自民党の渡辺美智雄を擁立しようという動きに伴い、渡辺の側近であった柿沢弘治、太田誠一、新井将敬、佐藤静雄、山本拓、米田建三の6人が先行して自民党を離党、無所属ながら総理大臣指名選挙で自民党総裁の河野洋平を支持した(後の山本の妻)高市早苗を加えた7人の代議士で結成した政党。党首は柿沢、代表幹事が太田。最終的に渡辺は離党を断念したが、羽田孜内閣で柿沢は外務大臣に就任した。同年7月海部俊樹を代表とする自由改革連合結成に参加し同年12月、新進党結党により解散した。しかしその後、上記7人全員が自民党に復帰した。この自由党は党首の名前から「柿沢自由党」として区別されることもある。
日本の政党
自由党
Lebral Party(LP)
成立年月日1998年1月6日
解散年月日2003年9月26日
解散理由民主党への合流
後継政党民主党
本部所在地〒107-0052
東京都港区赤坂2丁目2番地12号
国際興業赤坂ビル
政治的思想・立場新自由主義、保守主義
機関紙自由党
国際組織自由主義インターナショナル※
※オブザーバー資格による加盟。
表・話・編・歴
1998年 - 前年の新進党分党に伴い小沢一郎を中心とした議員が結成。スローガンは「日本一新」。
2003年 - 民主党への合流に伴い解散。
政策的には、小沢の著書「日本改造計画」、新進党の政策「日本再構築宣言」を基に、小さな政府・規制緩和・市場主義といった経済的新自由主義と、教育基本法見直しなどの政治的保守主義をとり、自由民主党政治に対抗する改革を呼びかけた。
国際的には、自由主義インターナショナルにオブザーバー参加した。
当初は民主党と共闘していたが1999年1月から自由民主党の小渕恵三内閣に連立参加して与党となり、副大臣制度の導入や、衆議院議員定数削減などを実現した。しかし、公明党が連立に参加すると(自自公連立)次第に自由党の主張が取り入れられなくなったとして小沢は連立離脱を決断するが、党内の連立残留派が2000年4月に保守党(後の保守新党)を結成し分裂したため、党勢が後退した。
国政選挙では小沢のキャラクターを前面に出し毎回現有勢力に上積みしたが、自民党に対抗する勢力を結集するため、2003年に民主党と合併して解散した。民主党ではベテラン議員を中心に旧民社党系の民社協会(川端達夫グループ)、若手議員は一新会(小沢グループ)に所属している。