重度のリストカッターの場合、近親姦が過去にあったことが多い。この場合、自分がやっていることと自分のされていることとの区別がつかなくなり、自分を痛めつけることをそのまま愛情として認識してしまうほかなくなってしまうことが多いとされる。この場合、実はもう片方の親に憎しみを抱くことが多いとされる。近親姦の定義については一般認識と心理学では大きな隔たりがあり、一概には言えないが、心理学上は肉体のいかなる部位においても「近親者が子供の性的な興奮を目的として触れる行為」を近親姦と定義している。また、さらに言うならば、近親者が自分の性器を露出して見せたり、自分で触れてみたり、子供の性的な写真を撮るなどといった行為も「近親姦的行為」とされる。また、子供に対するセクハラ行為でも心理的に似たような苦痛を受ける。そして、本人にとって重要な点はそれが「秘密にしておかなくてはならない行為である」ということである。
近親姦はめったにないと思われているところがあるが、実際には米国保健福祉省などを含む、あらゆる信頼のおけるデータによると近親者から18歳までに受けた性的加害行為は少なく見積もっても1割にも上り、実際には相当数に上ると思われている。これほどまでに性的行為が多いことは1980年代半ばまでは認知されておらず、それまでは少なくとも10万件に1件程度だと思われていた。
近親姦をされた子供は被虐待者の特徴として罪悪感を内面化するが、そこに羞恥心が加わることによって、「自分は悪い事をした」という意識は他のどの虐待の場合よりも強くなる。しかも、父親と娘の場合に多いが「自分は母から父親を奪っている」という意識が強くなり、自分自身を卑下してしまい、その罪悪感が自傷行為に影響を及ぼすとされる。しかも、その孤立感から家庭にしか居場所がなく、家庭を改善させようとしてしまうため、現実には不可能な「幸せな家庭」という夢を追い求め、悪循環に走ってしまうことが多いとされる。近親姦(特に親子)はほぼ間違いなく破滅的な結果をもたらすが、それは自傷行為だけでなく、薬物依存、セックスに関する諸問題など様々な形で現れる。
また、より広義の性的虐待に関しても近親姦同様に関連が疑われている。ダイアナ・ラッセル(Russell, D)のサンフランシスコの女性に対する調査によると、直接的身体接触だけで38%に上っている。非身体的なものまで含めると54%にもなる。日本においても1998年の「子どもと家族の心と健康」調査によると小学卒業までに女性の15.6%、男性の5.7%が性的虐待の被害に遭ったという回答が得られており、今まで社会が否定し続けてきた実態が明らかになりつつある。
なお、性的虐待にあった人は自傷をする代わりに過食嘔吐をしたり、他の自己破壊行動をとることも多いとされる。いずれにせよ、自己破壊行動として類似した点が多い。女性が重視されがちであるが、男性にも同様の傾向が認められている。
自分を切りつけることは学力に対して優位に働くこともある。勉強それ自体は問題ではないが、自傷行為を行う人の場合低い自尊心の裏返しからか完璧主義、強迫衝動が強いのが特徴的である。勉強はこういった人の場合には、自分自身に対して痛みを加えることと同一であると錯覚される可能性がある。勉強による孤独感の強さも関係している可能性もある。
性に関して逸脱している状況が引き金になるケースもあるといわれ、売春などに関係しているケースもあるといわれる。実際、日本の風俗嬢が自傷行為をしているケースもある。しかし、レイプなど、男性にされたことに対しての心の傷はその性質上表面には出づらいので、自分で抱え込んでしまうことが多いうえ、少女時代にはレイプを愛として認知し、自分自身を痛めつけることによってその原体験を再現したがり、自傷行為をより悪化させてしまうことも多いとされる。また、レイプした人間と付き合うケースもあり、その場合自分自身に対して「バカな人間」という称号を付けてしまい、自尊心をさらに下げてしまう結果になることもある。
原因として、フロイトに関係する精神分析の解釈が用いられることもあるが、現在はさほど有力視されていない。精神分析学的自我心理学に関係する解釈によると、自傷行為は幼少期(1〜3歳前後)の頃の母親との分離不安が原因となり、自己存在の確認の一時的な手段として用いられると主張される。この説は精神分析学的に手首は乳房に触れていたのだから母親との意思疎通を図っているのだろうとされていたために起こったものである。この説に基づけば、自傷行為は母親など他人との意思疎通の一種であると考えられる。しかしまず、手首が母親との意思疎通を表すならレッグカットなどをする時点でこの説は不備が多い。さらに、実際に意思疎通能力を高めても、何人かについては成功を収めたものの、多くの患者は自傷行為を続けたのである。このため、研究者たちは自傷行為にはより複雑な原因があると判断し、異なる原因があるだろうという論が現在有力である。いずれにせよ人によってその背景が異なる事を十分認識しておかなくてはならない。
自傷行為の場合解離する場合と解離しない場合があることが知られる。多くはその二つを使い分けているようである。代表的な動機を以下に述べるが、どれであるかははっきり区分できない。だが、解離が進んでいればいるほど重症なケースが多い。
周囲の目や気を引こうとして行う
周囲に心配されない、見てもらえないといった見捨てられ感を打破したいがために、わざと人目を引く傷をつけ心配してもらいたい、という欲求を満たすために行う。わざととはいっても、この動機は無意識的なものであり、本人ははっきりとは理解していない。解離性の自傷行為とはほぼ対極に位置するもので、この場合傷口を当初から隠そうとせず見せびらかすケースがほとんどである。
儀式として行う
恋人や家族などを事故で失った場合に行う。この場合、自傷行為は、本人なりの葬儀のあり方であるとされる。家族や恋人との接点が薄い場合、墓参りに行こうとしても行けず、自分の手首や腕を切って血を流すことで、恋人や家族の死の葬儀の儀式として行うとされる。この場合、仕事や個人的な事情などで当初は悲しむ余裕すらなかった場合が多く、一年後など後になって起こることが多いとされる。
自己を認識するための手段
自分という存在の輪郭を再確認し、自己解体感を抑える際に行う。これは周囲に対して見捨てられ感を抱いた場合、「自分という存在はこの世界に必要ないのかもしれない」といった考えを否定するためである。また、虐待を受けたことなどで、自分の存在をその苦痛に投影するケースもこれに当たる。痛み、流れる血などを見て自己の生命を再確認し、安心できることから行われる。
痛みによって助けを求めるための手段
自分が非常に危険な状況に陥った時に、痛み自体に救いを求める際に行う。これは自殺を模倣することで、自分自身の自殺したい願望を抑えるためともいわれる。例えば、仕事上の失敗などで「もうこんな現実から逃げたい」と思っているにもかかわらず死ぬことがためらわれる場合などが、これに当たる。
攻撃衝動を自分に向ける
自身の攻撃衝動を外に向けることができない者(女性に多い)が、その衝動を内に向けるときに行う。例えば「親や周囲の人間に愛されない自分の存在が許せない」と認識した場合に行うのがこれである。またこれは、自分を理解しない周囲に対する怒りをもったときに、手首などをそれらの周囲に見立てて人格化し、攻撃しているとも解釈できる。
現実逃避の手段
何か非常に困難な事象にぶつかった場合、自分を切ることによってその現実に一時的に対処する際に用いる。例えば、両親の不和や自分に対する虐待などで「親を愛することができない自分なんかいらない」と自身が認識した場合や、自分のことが原因で友情にひびが入った場合「自分なんかいなければよかった」と思ってしまうケースなどがこれに当たる。この場合、罰せられることによって「許し」を乞うているとも考えられる。しかしながら、それによって本当に許しが得られるわけでもなく、常習化が進んでしまうとされる。
自分を他人にする手段
自分がしていることを他人の目で見ることによって自分自身を乖離させる手段として用いる。自分で自分を切りつけ、葛藤している通常の自分を信じられない自分にすることによって、自身を他人のようにみなし、その自身を否定し、そうしていないもう一人の自分を認識することによって、葛藤ごと葛藤している自分自身を否定し、精神の安定を得るのである。
自分自身の存在をなくする手段
過去の体験や記憶を自分の中から失わせる手段として用いる。本人の中で「親殺し」の葛藤が起こることもある。その状況は「真っ白」とも表現される。これは、自分自身の精神的な痛みを、肉体的な痛みによって超越させ、それによって思考を破壊し、自己を内へと退行させている。