1988年6月、チベット自治区党委員会書記が重病のため辞職した。中国共産党総書記だった趙紫陽は2つの貧しい貧困地域(甘粛省・貴州省)で働いていたことを理由に胡錦濤をチベット自治区党委員会書記に指名した。同年12月に書記に就任したが、チベット自治区の区都ラサではデモ活動が起こっていた。1989年1月19日、ラサにて公開裁判をおこない、前年3月に起きた抗議運動に加わって逮捕された僧侶に死刑判決を含む重罪判決を言い渡した。その際、僧侶の頭を押さえるなどチベット民衆に対する見せしめとなった。その直後の1月28日、パンチェン・ラマ10世が急死したが、多くのチベット人は胡錦濤がそれにかかわったと信じている[3]。同年3月には抗議運動が大規模なデモ行進にまで発展したため、胡はラサ全市に3月8日午前零時から戒厳令を布告した。戒厳令布告は天安門事件に先立ち中華人民共和国史上初めてのことであった[4]。日本では、この時にチベット独立運動を押さえ込んだことで党指導部の信頼を勝ち得たと言われることもあり、2008年のチベット動乱の際にもメディアで批判される根拠となった。その後、1989年6月に天安門事件が勃発した際も、その民主化運動のチベットへの波及を防御するため、ラサを戒厳令下に置いた。以降チベット自治区の最高責任者にあった4年間、「1.分離主義の弾圧、2.経済建設を推進」する政策を実行した。
しかしこの頃、胡本人は自身の将来に対し悲観的であることを友人に話している。キャリアに行き詰まり、今の地位である地方の党書記以上に出世することはないだろうと胡は思っていた[5]。彼は、チベット自治区で貴州省の時と同じように実績を残すことが出来ず、党の高級幹部になることは難しいと考えていたため、チベットでなく北京で過ごすことが多かった[6][7]。しかし胡はチベット自治区党委員会書記在任中も宋平と連絡を取り続けており、このことが将来に大きく影響を及ぼす。
1992年の中国共産党第14回大会が行われる前に、ケ小平と陳雲を含む党長老たちは、ケ小平を中心とする「第二世代」から江沢民を中心とする「第三世代」へスムーズに権力の移譲を行うために、後継者を選出した。さらにケ小平は「第四世代」を代表する50歳以下の人物を将来の指導者として選出することを提案した[8]。この時、宋平が将来の指導者として胡錦濤を推薦した。結果として、胡錦濤は中国共産党中央政治局常務委員に選出された。これは中華人民共和国建国史上2番目の若さだった。同時に中国共産党中央書記処書記にも選出された。
胡は江沢民の後継者と見做されていたが、胡は自身でなく江沢民が注目されるように注意を払っていた。2000年に江沢民が提唱した3つの代表理論に対し、自らを毛沢東やケ小平に並べるための売名行為との批判が出たが、胡はこの理論を宣伝した[9]。そのため、彼は穏やかで礼儀正く、協力関係を築くのに熟練しているというイメージを持たれた。1998年には国家副主席に就任していたが、江は胡が対外関係でより積極的な役割を担うことを期待した。1999年のコソボ紛争におけるNATO軍の空爆で中国大使館が誤爆された際には、中国政府を代表してテレビ演説を行った。
そして2002年に中国共産党第16回大会で権力の移譲が行われ、江が権力の中心から退いた。しかし江は自身の派閥である上海幇から呉邦国、賈慶林、曽慶紅、黄菊、李長春を党中央政治局常務委員に配置し、また自身も中央軍事委員会主席のポストを手放さず、院政を敷くものだと思われていた。
国家主席2005年、第31回主要国首脳会議(グレンイーグルズサミット)に国家主席として参加(手前の列の左からの3番目の人物)2006年、アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュと会談2006年、アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュと会談
中国共産党第16回大会で総書記に就任した胡は首相に指名した温家宝とともに「和諧社会」というスローガンを掲げ、格差の是正に努めた。1990年代以降、中華人民共和国社会では改革開放政策に起因する経済的な地域格差の拡大、また貧富の差の拡大などの矛盾が表面化し始め、それが官僚の腐敗、民族対立などと相まってデモ・暴動・騒乱が増加していたためである。しかし胡錦濤が最高権力者になってからも海外でも大規模な暴動が度々報じられるようになり、特に2004年10月末に発生した四川省漢源の暴動は、建国以来最大規模のものとなった。そのため、「和諧社会」はいまだ成功しているとは言えない。ただし、農村部住民の足かせとなっていた農村戸籍の廃止に地域限定ではあるが乗り出していること、これまで保険制度のなかった農村部に保険を導入するなど、独自の政策も打ち出している。
院政を敷いたかに見えた江沢民だったが、2004年に中央軍事委員会主席の座も胡錦濤に譲り渡した。これによって胡錦濤は人民解放軍のトップにもなり、党・政府・軍の権力の全てを事実上掌握した。しかし江沢民を中心とする上海幇との権力闘争は以降も続くことになる。