東京都大田区蒲田にて羽田武嗣郎、とし子夫妻の長男として生まれる。父武嗣郎は朝日新聞記者を経て衆議院議員となった人物であり、母とし子は、志賀高原を命名した長野電鉄の創設者神津藤平の娘である。名付け親は、武嗣郎の東北帝国大学時代の恩師に当たる阿部次郎で、「孜孜(しし)として働く」から取られた。1942年に第二延山小学校に入学するが、戦争が激しくなったため、1944年3月に父の郷里である長野県に疎開。1946年、父、武嗣郎が、公職追放。1951年、上田第二中学校に入学。この頃から、議論好き、世話好きの片鱗を見せ始める。長野県上田高等学校を受験するが、不合格となり、東京の成城学園高等学校に入学。1954年に成城大学経済学部に入学する。大学3年生の時に、ハンガリー動乱で亡命してきた学生をかくまう。 1958年、成城大学を卒業。父と同じくジャーナリズムに憧れ、朝日新聞、日本経済新聞などを受験したが、失敗。父のコネで、小田急バスの試験を受け入社した。小田急バスでは、吉祥寺営業所を経て、観光課に配属される。観光課では企画を担当し、春夏秋の観光シーズン以外に顧客を掘り起こすため、武嗣郎の友人である野田宇太郎の協力を得て、「文学散歩」「史跡散歩」などに力を入れた。その他に学生、老人、会社などの慰安旅行や幼稚園の遠足や学校の修学旅行、更には皇族の旅行を企画し、時には車掌も勤めた。1965年に綏子夫人と結婚。羽田は父親の後継者となって、政界入りする気持ちは無かったが、1963年に武嗣郎が脳出血で倒れたため、後援会を中心に政界入りを打診され、1968年10月に小田急バスを退職する。
羽田 孜
(はた つとむ)
第80 代
日本国 内閣総理大臣
在任期間1994年4月28日
- 1994年6月30日
生年月日1935年8月24日
出生地東京都大田区
(出身地:長野県上田市)
出身校成城大学
学位・資格・称号経済学士
前職外務大臣
国務大臣(副総理)
新生党党首
世襲の有無2世
父・羽田武嗣郎(衆議院議員)
選挙区衆院長野3区
当選回数衆13回
党派新生党
没年月日
1969年12月、第32回衆議院議員総選挙に旧長野2区から自由民主党公認で立候補し、7万3325票を獲得し、トップ当選となる。自由民主党では、田中派に所属した。羽田は、郵政政務次官を経て、農林政務次官となり、農林族としてそのキャリアを歩むこととなる。衆議院農林水産委員長、自民党林政調査会長、総合農政調査会長などを歴任した。農林族としての羽田は、それまでのいわゆる「ベトコン議員」に代表される毎年米価を引き上げて、農村に一方的に利益を傾斜配分するものではなく、国内産業としての農業の位置づけや、国際経済における農業貿易問題を思考するもので、加藤紘一などとともに、「総合農政族」と呼ばれた。1984年には、自民党を代表し牛肉とオレンジをめぐる日米農産物交渉解決に取り組んだ。翌1985年12月、牛肉オレンジ交渉の実績が認められて、第2次中曽根内閣第2次改造内閣で農林水産大臣として初入閣する。ちなみにこの時自治大臣として小沢一郎も初入閣している。農水相としては「タブーへの挑戦」を掲げ、日米間で対立が大きくなってきたコメの自由化問題に対応する。羽田は、外国米に対して価格の高い日本米に国際競争力をつけるため、農産物価格の引き下げを断行しようとした。しかし、1986年の衆参同日選挙後、成立した第三次中曽根内閣で農水相は羽田から安倍派の加藤六月に交代し、農協の反対にもあい、米価は据え置かれることとなった。しかし、農水相を降りた羽田は、翌1987年、生産米に関しては、生産者価格を引き下げるという政府・自民党合意を取り付け、米価の引き下げを断行するに至る。
羽田は田中派の中堅議員として、次第に実力を蓄えていくが、一方で派内の世代交代を意識するようになっていった。1985年2月、竹下登による田中派の派中派・創政会に参加する。田中は2月27日脳梗塞で倒れるが、最後に政治家として公の場で発言したのは、羽田のパーティーにおいてであった。竹下派結成に際しては、竹下派七奉行の一人に数えられ、金丸信から「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と称される。1987年11月、中曽根康弘首相に指名される形で念願の竹下内閣が成立する。1988年12月27日、竹下改造内閣で農水相として再入閣。しかし、竹下内閣はリクルート事件、消費税導入による世論の逆風を受け、1989年に退陣した。
海部俊樹内閣が成立すると、羽田は党幹事長となった小沢一郎に、党選挙制度調査会長就任を求められ、これを受けた。