6月30日村山自社さ連立内閣が発足し、野党に転落する。小沢の主導によって、旧連立の新生党、民社党、日本新党などは相次いで解党し、1994年12月10日に新進党が結党。羽田は党首選挙に立候補するが、小沢の支持を得た海部俊樹に敗れ、小沢らの打診で副党首となる。
1995年12月にも党首選挙に立候補し、小沢と激突する。羽田支持グループは、党内非主流派ともいうべき興志会を結成し、小沢執行部と対立を深めていく。1996年、新進党が衆議院議員総選挙に敗北すると、小沢執行部に対する更なる不満を強め、新進党を離党し太陽党を結成、党首となる。
1997年12月に新進党分党すると、1998年1月に新進党の存続政党である小沢自由党不参加の保守系諸派を糾合し、民政党を結成し、代表となる。民政党は旧民主党、新党友愛、民主改革連合による統一院内会派「民友連」へ参加。さらに4月28日には民政党合流による民主党が結成され、初代幹事長に就任。その後、特別代表、最高顧問を歴任する。
2004年5月、国民年金への加入が義務付けられた1986年4月から首相在任期間を含む1995年7月までの9年間余り未加入であったことを自ら発表し、党最高顧問を辞したがその後再び最高顧問に就任。現在に至る。
人物
田中真紀子に「多弁にして空疎」といわれて馬鹿にされたことがある。
語尾に必ずといっていいほど「?というふうに」というフレーズを使用する(羽田語と揶揄された)。ほかに、「アレする」「真正面から」「率直にいって」などのフレーズも多用。
特徴的な半袖ジャケットで知られる省エネスーツの愛好者。省エネルックの普及[要出典]に大きく貢献した。
「H2O」(無味無臭であることから)と呼ばれたこともあった[要出典]。
羽田家は秦氏の末裔とされており、秦氏は始皇帝の末裔と自称した[要出典]。
参議院議員の羽田雄一郎は長男。
羽田は小選挙区制導入後は長野県第3区選出代議士だが、自身は東京都第6区有権者である。歴代の東京6区選出代議士は岩国哲人?石井紘基?小宮山洋子?自民党の越智隆雄。岩国は羽田側近、石井・小宮山は成城学園高校の後輩で親密。石井が殺害された後の補選で、当時参院にいた小宮山を担ぎ出し選対本部長をつとめたのは羽田である。
愛称は「孜チャン」「ハタッチ」。
1994年11月8日、笑っていいとも!のテレフォンショッキングに小池百合子からの紹介で出演したことがある。ちなみに翌日ゲストに指名したのは山口敏夫。
俳優・歌手の小坂一也(故人)と親交があった。
同郷のプロボクサーで世界王座挑戦2度の実績有す西澤ヨシノリの後援会会長を務める。
小田急バス社員時代、冬季にバスのフロントガラスに雪が積もっていると「人間ワイパー」の様に羽田がガラスに張り付き、脚立も無しで凍り付いた雪を取り除いていたという[要出典]。
バレーボール好きで、全日本チームの試合会場に観戦することも多く、地元・長野県バレーボール協会会長を2007年まで16年間務めた。
2007年12月6日からの民主党の訪中の際、新華社通信の記事に自称徐福の子孫と報道された ⇒[1]
パチンコチェーンストア協会政治分野アドバイザー、北京オリンピックを支援する議員の会で顧問を務めている。
新興宗教崇教真光の46周年秋季大祭(2005年)に出席し、来賓として祝辞を述べている[1]。
略歴
1935年
8月24日 出生(父・武嗣郎、母・とし子)。
1969年
12月 第32回衆議院議員総選挙に旧長野2区から自由民主党公認で立候補し、初当選。
1992年
6月23日 離党。新生党を結成し、党首に就任。
8月9日 細川内閣で副総理兼外相に就任。
1994年
4月25日 内閣総理大臣に指名される。直後に改新騒動。
4月28日 羽田内閣が成立。社会党の連立離脱により少数与党内閣として発足。
6月25日 自由民主党による内閣不信任案の提出を受け、内閣総辞職。
12月10日 新進党結成に参加。副党首に就任。
1995年
12月27日 第2代新進党党首選挙で小沢一郎に敗れる。
1996年
新進党を離党。太陽党を結成し党首となる。
1998年
1月 民政党を結成し、代表となる。
4月28日 民主党に合流し、初代幹事長に就任。以後、特別代表、最高顧問を歴任
関連項目
民主党国会議員一覧
民主党の閣僚経験者一覧
竹下派七奉行
ネオ・ニューリーダー
羽田内閣
赤松良子