1979年11月30日、台湾人權委員会は高雄市第一分局に対し世界人権デーに当る12月10日午後のデモを申請したが不許可との決定が伝えられた。その後も数度の申請が試みられたが、結局許可を得られず、党外活動家は元来の計画に従い高雄市にて無許可のデモを決定した。
12月9日、国民党政府は軍事演習を理由に12月10日の全てのデモ活動の禁止を宣言した。デモ当日、『美麗島』のボランティアである姚国建と邱勝雄は活動日時を知らせるビラ配布により逮捕、官憲の暴行を受けた。『美麗島』活動家は逮捕の事実を知ると警察に対し即時釈放を要求、両名は翌日未明に釈放された(鼓山事件)。この事件が党外活動家の怒りを買い、元来デモへの参加を計画していなかった多くの活動家が高雄に向かいデモ参加の準備を開始した。
12月10日午後6時デモ隊はデモを開始、当局は治安部隊を出動させこれを阻止しようとした。集会地として計画された「扶輪公園」は既に封鎖されていたため、デモ隊は急遽現在の新興分局前のロータリーに集会地を変更した。集会で黄信介の演説が開始されると治安部隊によりデモ隊は完全に包囲された。施明徳と姚嘉文は警察側との協議を行い午後11時までの集会の許可と、治安部隊の撤収を要求したが、警察側は治安維持を名目にこれらの要求を全て拒否した。午後8時半、治安部隊がデモ隊に対し催涙弾の使用を開始すると集会現場は混乱、双方間での衝突に発生し、午後10時前後には警察の応援部隊も到着し大混乱となった。
事件発生後の12月13日午前6時、政府は台湾全島での党外活動家の逮捕を決定、治安部隊を全島に展開させた。1980年2月20日、憲兵軍法会議は叛乱罪で黄信介、施明徳、張俊宏、姚嘉文、林義雄、陳菊、呂秀蓮、林弘宣等を基礎起訴、その他30数名が一般法廷で起訴された。張徳銘、陳継盛などの支援の下、党外活動家側は弁護人選定に着手し、最終的に15名の弁護団が結成された。被告1名に弁護士2名が対応して裁判が行なわれたが、軍法会議で起訴された8名全員は有罪、施明徳は無期懲役、黄信介には懲役14年、その他6名には懲役12年が言い渡された。
美麗島事件は後世の台湾政治情勢に大きな影響を及ぼしている。現在台湾の政局は民進党により運営されているが、民進党指導者層の殆どの人物は美麗島事件の関係者である。軍法会議で審理された8名の内、呂秀蓮は副総統に、姚嘉文は考試院院長に、林義雄は民進党前主席、張俊宏は立法委員、陳菊は労工委員会主任委員にそれぞれ任命され、民進党内で大きな影響力を有している。弁護団では黄信介の弁護をした陳水扁は中華民国総統に、謝長廷は民進党党主席、高雄市長、行政院長を歴任し、蘇貞昌は台北県長、総統府秘書長、民進党党主席、行政院長を歴任、張俊雄は行政院院長及び民進党秘書長を歴任している。
また別の方面では、かつて民進党党主席であり、美麗島事件のリーダー格であった施明徳と許信良の両名は民進党と距離を置き、民進党政策を批判している。林義雄も民進党党主席を務めたが、退任後は在野勢力として核四問題で党運営部と対立、2006年1月に離党しているなど、台湾民主化のシンボルと言われた民進党の政権奪取後、民進党を批判する勢力として大きな影響力を有している。
美麗島事件は民進党の政治的出発点であると言える。民進党結党以前の事件であるが、民進党党員の多くが事件に関連し、民主改革と国民党の一党独裁体制の打破に大きな功績を残した。しかし民進党内部では美麗島事件を党内の主導権争いに利用されているのも事実である。2004年の総統選挙の際に副総統候補を決定する過程で、呂秀蓮は美麗島事件を利用し、事件当時呂秀蓮との路線対立のあった29名を「反呂」立委として批判するなど、現代台湾政局の中では現在進行形として扱われている。 カテゴリ: 台湾の事件 | 戦後台湾 | 台湾の政治 | 1979年
更新日時:2008年5月30日(金)12:57
取得日時:2008/09/04 22:44