総統
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ドイツ国のフューラー第8回ナチ党党大会にて、総統旗を背にするヒトラー(1936年9月)

1934年8月1日パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が危篤になると、ヒトラー首相率いるドイツ国政府は、「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律(ドイツ語版)」を制定した。この法律の第1条には、ヒンデンブルクの死後に、ドイツ国大統領の官職はドイツ国首相の官職と統合される。それにより、ドイツ国大統領の従来の権限は、指導者兼ドイツ国首相アドルフ・ヒトラー(der Fuhrer und Reichskanzler Adolf Hitler)に委譲される。彼は自らの代理人を定めるものとする

とあり、単に首相職と大統領職の統合だけではなく、大統領の権限が、国家内の官職ではない人格としての「指導者兼ドイツ国首相アドルフ・ヒトラー」個人に委譲されるというものであった[16]。この法律は1934年4月1日に公布されたライヒ新構成法(ドイツ語版)の「ライヒ政府は新憲法を制定することができる」という規定を法的根拠としている[17]。また翌日、ヒンデンブルクの死去に伴って内務大臣ヴィルヘルム・フリックに対して発されたヒトラーの布告「元首法の執行に関する命令」には、「内閣により決定され、かつ憲法に基づき合法的に私の人格及びドイツ国首相職に対しかつてのライヒ大統領の権限が委任された」と記述されている[18]

この「指導者兼ライヒ首相アドルフ・ヒトラー」という称号は、文字どおり、ヒトラーの人格を介した運動と国家の結合という、前例のないものであった。ヴァイマル共和国すべての大統領府長官をつとめたオットー・マイスナーは「今回の立法措置により、フューラーは「国家の機関(Staatsorgan)」となり、また「国家の人格(Staatspersonlichkeit)」となった」と主張している[18]。一方で内務省次官ヴィルヘルム・シュトゥッカートは「フューラーの官職は国家法的に何か全く新しいものである」とし、「独裁者でも、絶対君主でもない。彼はまた立憲君主や大統領とも比較可能なものではない」としているが、あくまでも官職であると解釈している[19]。一方で法学者ハインリヒ・トリーペル(ドイツ語版)は「指導者は通常の法律用語の意味で官職を有するものではない」とし、ラインハルト・ヘーン(ドイツ語版)もまた「フューラーと官職の保持者は本質的に異なるものである」とした[19]。ヒトラー自身は「10年もすればフューラーという呼称は非人格的性格を持つようになるだろう」、「『首相』の代わりの公式名として『総統』という称号を使うことになっても私はいっこうにかまわない」、「つまらない人間が組織の『長』に選ばれることはありうるが、誰にでも総統の称号がふさわしいわけではない」[12] と、通常の官職と同一視していない。結局、フューラーやその権限を定義する法律は、最後まで成立しなかった[20]

これにより、国家の枠外にあり、国家を超えるフューラー(総統)が国家の上に立ち、憲法体制を支配するという体制が完成した[18]。この手続きは、8月2日のヒンデンブルクの死とともに発効した[18]。しかし、ヒトラーはこの措置の正統性を問う投票を要求した[18]。総統官邸長官ハンス・ハインリヒ・ラマースが全く不必要な措置としているように、投票はヒトラーの法的地位に関して影響を及ぼすものではなかったが[18]。ヒトラーは「ドイツ国の新たな憲法体制を生み出す権限を、先に私に与えられた全権から導き出すことを拒否しなければならない。否、それは民族自らが決定するものでなければならない」として、自らの地位を民族からの委託に基づくものであることを示そうとした[17]

8月3日、ドイツ国の国家元首に関する民族投票(ドイツ語版)[21]を行うことを公布した[22]。またこの日の声明で「ライヒ大統領」の称号は、偉大なるヒンデンブルクと不可分になったとして、みずからは公私ともに従前通り「指導者兼ドイツ国首相」と呼ばれることを望むとした。8月19日に行われた投票は、投票率は95.7%、うち89.9%が賛成票を投じ、ヒトラーの地位は盤石なものとなった。翌日、ヒトラーは「ドイツ国は今日ナチス党の手の中にある」「民族同胞諸君の投票により全世界に向かって国家と運動の統一が表明されたのだ」という布告を一切の肩書き無しで行った[23]

これ以降、フューラー(総統)の使用が浸透すると、首相の称号は重視されなくなり、1939年8月以降、公文書では単にフューラーと表記することが通例となった[24]。その後、ヒトラー自身も単に名前を署名するだけで、肩書を付けることもなくなっていった。ヒトラーに対しても「総統」、「私たちの(我が)総統(Mein Fuhrer)」といった呼称が用いられ、ヒトラーが三人称で呼びかけられることはなくなった[12]

第二次世界大戦中の1941年と1942年に開かれた冬季救済事業の開幕式で、ヒトラーは「神は、1933年1月30日、私に対しライヒの指導を委託した」と演説し、ヒンデンブルクやドイツ民族がフューラーの権限の源泉であるとは主張しなくなっていた[25]
フューラーによる統治スローガン「Ein Volk Ein Reich Ein Fuhrer(1つの民族、1つの国、1人のフューラー)」が掲示されたナチ党の集会(1938年3月)

ナチ党の定義では、フューラーは民族の中から選ばれるものではなく、民族が必要とする時により高次の存在から与えられるものであるとされた。また、フューラーの権威は、フューラー個人の人格と不可分であるとされた。このため、フューラーは「一回限り」の現象であり、その権威を譲渡するのは不可能であるとされた[26]

フューラーの指導は法規範によるものではなく、「人格指導」によって行われた。大統領や首相が法律に定められた権限を持つのに対し、フューラーの権力は、民族の最終日標や生存法則等の世界観以外の他のいかなるものにも制約されない超法規的なものとみなされた[26]。また、フューラーはいわば無謬の存在であり、民族共同体の唯一の代表者であると定義され、官吏や軍人は、国家や憲法ではなく、フューラー個人への忠誠が求められた(忠誠宣誓[27]。また、政治家の権力は、法や官僚機構によるものではなく、フューラーとの人格的距離によって権力が定まった[28]。ヒトラーは「フューラーの決定は最終決定であり、無条件の服従が求められなければならない」と語っている[29]。この思想はヘルマン・ゲーリング国家元帥が提唱した「フューラーが命令する、私たちは従う(ドイツ語: Fuhrer befiehl, wir folgen))」というスローガンによく現れている。

1933年12月1日には、「党と国家の統一を保障するための法律」が公布され、ナチ党は「ナチズム革命の勝利の結果、国民社会主義ドイツ労働者党がドイツ国家思想の担い手となり、国家と不可分に結ばれた」と定義された。しかしこれは、「党が国家に吸収された」というものではなく、党及び国家は民族のフューラーの手の中にあって、民族の最終目標に奉仕する一つの手段、装置として位置づけられたものである[30]。これはヒトラーが『我が闘争』で「国家は目的ではなく、一つの手段である」と定義したことに附合していた。しかし、実際の現場において党と国家の役割の区分は曖昧であり、その区分はフューラーたるヒトラーの裁量で行われた。このため、党と政府の機関の間で重複する権限をめぐって、勢力争いが頻発した[31]。しかし、ヒトラーはこれらをあえて積極的に是正しないことで、最終的に裁定し得る存在である自身の唯一絶対的な地位を強化した。

フューラーに指導される民族には、フューラーにとって望ましい民族であることが望まれた。このため民族には画一的な思想や行動をとる、強制的同一化(強制的同質化、Gleichschaltung)が求められた。

1942年4月26日、ナチス体制下で最後に開催された国会でフューラーは、「いついかなる状況」においてでも「すべてのドイツ人」に対し、「その者の法的権利にかかわりなく」、「所定の手続きを得ることなく」罰する権利を手に入れたとされた。これによりフューラーは、法律や命令を必要とせず、発言すべてが「法」となる(総統命令)存在となった[32]

ヒトラーは最終的には、一党独裁体制下における支配政党の党首、国家元首、行政の長(首相)、立法の長(全権委任法)、軍の最高司令官(国防大臣の権限も吸収)、陸軍総司令官を兼ね、国家のすべての権限を一手に握ることになった(これをもってヒトラーを大元帥と表記する文献もあるが、彼が軍事上の名誉階級や称号を得たことはない)。ノルベルト・フライ(ドイツ語版)は、このナチズムの統治体制を「Fuhrerstaat(総統国家)」という言葉で表現した。
消滅

大戦末期の1945年4月、ヒトラーは自殺に先立つ遺言書で、大統領兼国防軍最高司令官にカール・デーニッツ海軍元帥、首相ヨーゼフ・ゲッベルス、ナチ党担当大臣(Parteiminister)にマルティン・ボルマン、陸軍総司令官[33]フェルディナント・シェルナー陸軍元帥をそれぞれ任命し、自身が掌握していた権限を分割した。


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