結城秀康
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逸話

秀康の武将としての器量は一流で周囲からも認められており、武勇抜群、剛毅で体躯も良かったと言われている。一方で江戸城内でたまたま出会った上杉景勝が秀康に上座を譲ろうとすると、秀康と景勝は同じ権中納言といえども、景勝の方がより早くその官位を受けているとして、先官の礼を以って景勝に上座を譲ったともいう。こうしたことから謹厳実直な人物だったともいわれている。

同様の逸話は徳川秀忠に対してもあり、福井から江戸に向かい、秀忠が出迎えた折、地位の上下を守ろうとする秀康と長幼の礼を守ろうとする秀忠が互いに先を譲り合い、結局江戸城まで馬を並べて進んだといわれる。

鉄砲を所持したまま江戸に向かおうとして、関所で止められたことに激怒し、関所を大筒で破壊して通行したことがあるといわれる。が、秀康は徳川家中で別格扱いであったため関守が一方的に罰せられたという。史実かどうかは不明だが、このような逸話が残ること自体が、家康・秀忠が秀康に対して気を遣い恐れていたことを示しているといわれる。

家康が重臣たちに後継者を誰にすべきか質問したとき、本多忠勝本多正信の両名は秀康の後継を支持した。秀忠には大久保忠隣しか支持が無かったことからも、秀康の器量が徳川家臣団からも高く評価されていた事の例とされる。

秀康は生涯、羽柴、結城、松平など様々な姓を称したが、歴史的には結城姓の名で通ることが多い。

秀吉の人質時代、伏見の馬場で馬を駆けさせていると、秀吉の寵臣が馬術を競うために秀康に馬首を並べて馬走した。秀康は「自分の許しもなく共駆けするとは無礼千万である」として無礼討ちした。しかし秀吉は秀康のこの行為を、「自分の養子をないがしろにするのは、自分に無礼を働いたことと同じ。秀康の処置は天晴れである」と褒め称えたという。

秀康が家康と伏見城で相撲観戦していたとき、観客が熱狂して興奮状態になり騒ぎ始めた。すると秀康は観客席から立ち上がって観客を睨みつけた。その威厳に観客の誰もが驚き、騒ぎは一瞬で静まったと言われている。この秀康の威厳には家康も驚き、『校合雑記』には「今日の見物ある中に、三河守(秀康)が威厳驚きたり」と述べたという。

秀康は弟の秀忠が徳川氏の家督を継いだとき、伏見城代を務めていた。出雲の阿国一座を伏見城に招いて、阿国の歌舞伎を絶賛した後、こう漏らしたと言う。「天下に幾千万の女あれども、一人の女を天下に呼ばれ候はこの女なり。我は天下一の男となることかなわず、あの女にさえ劣りたるは無念なり」。これは、秀康が将軍職を継ぐことができなかった無念を示しているものと言う。

秀康は、家康に生涯を通じて冷遇されたことから、養父の秀吉をむしろ敬慕していた。そのため、豊臣秀頼のことを弟のように可愛がり、「幕府が豊臣を攻めたら、自分は秀頼を助けて大坂城に入る」と述べたという。このため、秀康が存命だったなら、大坂の陣の展開も変わっていた可能性がある。

石田三成とも親交があり、三成失脚時、領地まで護送した礼として名刀・五郎正宗を譲り受けた。この名刀は「石田正宗」と称され、秀康の末裔にあたる津山松平家に伝世されている。

秀康には法号が二つある。はじめは孝顕院殿三品黄門吹毛月珊大居士である。秀康は生涯を通じて家康に冷遇されたことを恨み、死に臨んで徳川氏と訣別するため、徳川氏の菩提寺である浄土宗の寺ではなく、結城氏の菩提寺である曹洞宗の孝顕寺に葬るように遺言した。その遺言に秀康の家臣団は従ったが、後に秀康の遺骸は浄土宗の浄光院に改葬され、法号も浄光院殿森岩道誉運正大居士と改められた。

秀康の専用武器として知られているのは天下三名槍の一つで駿河嶋田の鍛冶師義助の傑作御手杵である。養父結城晴朝から譲られたこの槍は全長210cm、槍身長138cmもある大身槍で外見上は槍というよりも大剣に近い。威力・重量とも凄まじく、この武器を愛用していた秀康の膂力が人並み外れていたことも物語っている。


死因

秀康の死因は通説では梅毒による病死とされている。

しかし秀康の死の直前、慶長12年(1607年)3月5日、弟の忠吉も死去している。連続した、しかも34歳の若さでの死は疑惑を招きやすく、一説では器量が自分より優れていた秀康の存在を恐れた秀忠か、その側近による暗殺ではないかともされており、この説について語る歴史研究や時代小説も少なくない。また、秀康は徳川一門であると同時に豊臣恩顧の大名でもあり、豊臣家支援の姿勢を崩さなかったため加藤清正浅野幸長らと同様に家康に暗殺されたという説もある。

逆に、記録通りに死因が梅毒ならば、罹患してから死亡するまで10年以上かかる。これから感染時期を逆算すると朝鮮の役となり、陣中で遊女に接触して感染した可能性が考えられる。同時期に朝鮮半島名護屋に在陣した武将らが同様に感染したとするなら、同時期に死亡した事の説明にはなり得る。


子孫

江戸幕府の開幕後、秀康は松平姓を名乗った、徳川姓を称した、結城姓を生涯通したなど諸説ある。ただし現在残る書状・消息類の中で松平・徳川姓が表記されているものは無く、原則として結城のみである。「公卿補任」の慶長8年(1603年)条では「源秀康」とあり(結城氏は本来藤原姓であり、徳川(松平)氏は源姓である)、徳川もしくは松平を称していた根拠とする説もあるが、結城氏も朝光が、源頼朝の庶子であったとし、後世には源姓を名乗っていたとも言われ、確かな証拠とはならない。

結城姓は後に五男・直基(勝山藩3万石→大野藩5万石→山形藩15万石→姫路藩15万石。姫路入りの直前に死去)が秀康の遺言で継いだが後に松平姓に復し、形式上結城氏は滅亡している。

子は10人おり、越前藩は嫡子である松平忠直が継承した(忠直は松平姓)。なお、忠直の妻は2代将軍徳川秀忠の3女勝姫である。忠直と勝姫との間に松平光長が生まれた。その松平光長は93歳で死んでいる。光長には実の妹が2人おり、公家に嫁いでいる。秀康の後の5人の男子は越前松平家となっており、現在も子孫が続いている。秀康の子女は、忠直忠昌直政直基直良、喜佐姫、他に数人。

全国の大名のうち、越前藩は御三家に次ぐ制外の家とされた。これは普通ならば将軍職を継いでいるべき身分であったのに、家康に嫌われていたために庶子扱いされたことを不遇と見た弟・秀忠と、その気持ちを推し量った家康による罪滅ぼしの為であるともいう。なお、この特例は忠直以後の子孫達には受け継がれてはいない(光長は徳川御三家駿府徳川家の次とされ、一応制外の家であったとの説もある)が、福井藩松平家津山藩松平家松江藩松平家の家格は、いわゆる親藩大名中でも高い。分家として明石藩松平家前橋藩松平家など存在した。


脚註^古文書」出典。

 
官職位階履歴


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki