結城秀康
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翻弄される養子人生

秀康は天正15年(1587年)の九州征伐で初陣を果たし、豊前岩石城攻めで先鋒を務めた。続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げる。天正18年(1590年)の小田原合戦、天正20年(1592年)からの朝鮮出兵にも参加した。こうして秀康は若年ながら武勇抜群の勇将として周囲から認められるようになる。

ところが天正17年(1589年)、秀吉に豊臣鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名。そのため秀康は、天正18年(1590年)に下総国結城の大名・結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督と結城領11万1千石を継ぎ、「結城秀康」と名乗ることとなる(なお、慶長3年(1598年)頃の文書には「結城秀朝」という名乗りも使っているが、短期間で元の「秀康」に戻している)。改めて称号として、羽柴姓を贈られ、官位から結城少将と呼ばれた。


薄幸な晩年

秀吉死後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの戦いの前哨戦である上杉景勝征伐に参戦する。景勝に呼応する形で石田三成が挙兵すると、家康は小山評定を開いて諸将とともに西に引き返すことを決める。このとき家康によって、本隊は家康自らが率いて東海道から、そして別働隊を秀忠が率いて中山道(東山道)を進軍することが決められ、秀康には家康らが西に引き返す間、上杉景勝を牽制するという留守居の役目が与えられた。武勇に自信があった秀康は、凡庸と評判される弟の秀忠が大軍を率いて西上する大役を与えられたことに不満を覚え、家康に自らも西に向かう軍勢に加えて欲しいと嘆願するが、にべもなく拒絶されたと言う。

上記に関しては、秀康が冷遇されていた代表的事例の一つとされているが、状況的にみて妥当な配置であったと言う意見もある。その意見によれば、所期の構想どおりに秀忠軍が進軍できていれば、家康軍を後ろ盾にした形で決戦に臨むことができ、秀康に比べ実戦経験に乏しい秀忠を家康がサポートする事も可能であったとする。対して秀康が残置された東部戦線は流動的な状況を呈しており、その危うい陣営を一任できる人材は、実績・器量・血統をすべて備えた秀康をおいて他に居なかったとされる。その重責を果たした秀康に対しての家康の評価は、合戦後の増封高第一位という事実に反映されている(ちなみに増封高第二位は、関ヶ原の戦いで先鋒を務めた異母弟松平忠吉であり、いかに後方の備えが重視されていたかが伺える)。

関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城藩10万1,000石から越前北庄67万石に加増移封された。慶長9年(1604年)には松平氏の姓に復することも赦されている(ただし、秀康本人は一生「結城」のままで通したといわれる。後述)。しかし梅毒を患っていたため、慶長12年(1607年)に死去。享年34。後を嫡男の忠直が継いだ。


父親に嫌われた理由

家康は、懐妊時の於万の身持ちに芳しくない風評が多かったため、秀康をそもそも自分の実子かどうか猜疑していたとされている。そのため、生母の於万ともども秀康は家康から嫌われていた。

於義伊という幼名は、秀康の顔が醜悪で、ギギウ(ギギ)という奇怪な面相の魚に似ていたため、家康にそのような不名誉な幼名を与えられたという。

家康が秀康を嫌ったのは、兄の信康同様に粗暴な一面もあったからとも言われているが、真偽は定かでは無い。

小牧・長久手の戦いのとき、すでに秀康には弟の徳川秀忠松平忠吉武田信吉などが誕生していた。しかも天正7年(1579年)には織田信長の命令で兄の松平信康は自害していたから、本来なら次男である秀康は徳川氏の世子で、弟の誰かを秀吉に差し出すのが当然のはずである。しかし家康は息子の中で年長者の秀康を差し出している。

家康は、秀康の武将としての器量は、秀忠以上に高く評価していた。しかし後継者は秀康ではなく、弟の秀忠を指名した。一説には、武勇剛毅な秀康より、謹厳実直な秀忠のほうが守成に向いているとの判断とされるが、疑問も残る。


逸話

秀康の武将としての器量は一流で周囲からも認められており、武勇抜群、剛毅で体躯も良かったと言われている。一方で江戸城内でたまたま出会った上杉景勝が秀康に上座を譲ろうとすると、秀康と景勝は同じ権中納言といえども、景勝の方がより早くその官位を受けているとして、先官の礼を以って景勝に上座を譲ったともいう。こうしたことから謹厳実直な人物だったともいわれている。

同様の逸話は徳川秀忠に対してもあり、福井から江戸に向かい、秀忠が出迎えた折、地位の上下を守ろうとする秀康と長幼の礼を守ろうとする秀忠が互いに先を譲り合い、結局江戸城まで馬を並べて進んだといわれる。

鉄砲を所持したまま江戸に向かおうとして、関所で止められたことに激怒し、関所を大筒で破壊して通行したことがあるといわれる。が、秀康は徳川家中で別格扱いであったため関守が一方的に罰せられたという。史実かどうかは不明だが、このような逸話が残ること自体が、家康・秀忠が秀康に対して気を遣い恐れていたことを示しているといわれる。

家康が重臣たちに後継者を誰にすべきか質問したとき、本多忠勝本多正信の両名は秀康の後継を支持した。秀忠には大久保忠隣しか支持が無かったことからも、秀康の器量が徳川家臣団からも高く評価されていた事の例とされる。

秀康は生涯、羽柴、結城、松平など様々な姓を称したが、歴史的には結城姓の名で通ることが多い。

秀吉の人質時代、伏見の馬場で馬を駆けさせていると、秀吉の寵臣が馬術を競うために秀康に馬首を並べて馬走した。秀康は「自分の許しもなく共駆けするとは無礼千万である」として無礼討ちした。しかし秀吉は秀康のこの行為を、「自分の養子をないがしろにするのは、自分に無礼を働いたことと同じ。秀康の処置は天晴れである」と褒め称えたという。

秀康が家康と伏見城で相撲観戦していたとき、観客が熱狂して興奮状態になり騒ぎ始めた。すると秀康は観客席から立ち上がって観客を睨みつけた。その威厳に観客の誰もが驚き、騒ぎは一瞬で静まったと言われている。この秀康の威厳には家康も驚き、『校合雑記』には「今日の見物ある中に、三河守(秀康)が威厳驚きたり」と述べたという。

秀康は弟の秀忠が徳川氏の家督を継いだとき、伏見城代を務めていた。出雲の阿国一座を伏見城に招いて、阿国の歌舞伎を絶賛した後、こう漏らしたと言う。「天下に幾千万の女あれども、一人の女を天下に呼ばれ候はこの女なり。我は天下一の男となることかなわず、あの女にさえ劣りたるは無念なり」。これは、秀康が将軍職を継ぐことができなかった無念を示しているものと言う。

秀康は、家康に生涯を通じて冷遇されたことから、養父の秀吉をむしろ敬慕していた。そのため、豊臣秀頼のことを弟のように可愛がり、「幕府が豊臣を攻めたら、自分は秀頼を助けて大坂城に入る」と述べたという。このため、秀康が存命だったなら、大坂の陣の展開も変わっていた可能性がある。

石田三成とも親交があり、三成失脚時、領地まで護送した礼として名刀・五郎正宗を譲り受けた。この名刀は「石田正宗」と称され、秀康の末裔にあたる津山松平家に伝世されている。

秀康には法号が二つある。はじめは孝顕院殿三品黄門吹毛月珊大居士である。秀康は生涯を通じて家康に冷遇されたことを恨み、死に臨んで徳川氏と訣別するため、徳川氏の菩提寺である浄土宗の寺ではなく、結城氏の菩提寺である曹洞宗の孝顕寺に葬るように遺言した。その遺言に秀康の家臣団は従ったが、後に秀康の遺骸は浄土宗の浄光院に改葬され、法号も浄光院殿森岩道誉運正大居士と改められた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki