紅の豚
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紅の豚
Porco Rosso

監督宮崎駿
脚本宮崎駿
原作宮崎駿
製作鈴木敏夫
製作総指揮徳間康快
利光松男
佐々木芳雄
出演者森山周一郎
古本新之輔
加藤登紀子
岡村明美
桂三枝
上條恒彦
大塚明夫
関弘子
稲垣雅之
音楽久石譲
主題歌加藤登紀子
さくらんぼの実る頃
撮影奥井敦
編集瀬山武司
制作会社スタジオジブリ
製作会社徳間書店
日本航空
日本テレビ放送網
配給東宝
公開 1992年7月18日
上映時間93分[1]
製作国 日本
言語日本語
興行収入 54.0億円[2][3]
配給収入 28億円[4]
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『紅の豚』(くれないのぶた、英名:Porco Rosso)は、1992年7月18日に公開されたスタジオジブリ制作の日本アニメーション映画宮崎駿監督の長編アニメーション映画第6作。1990年に『月刊モデルグラフィックス』に連載していた宮崎の漫画「宮崎駿の雑想ノート」の「飛行艇時代」を原作とする。キャッチコピーは「カッコイイとは、こういうことさ。[注 1]」、「飛べば、見える。[注 2]」。

画像外部リンク
紅の豚ポスター|英語版Wikipedia

概要ドゥブロヴニククロアチアアドリア海沿岸の町)。

世界大恐慌の時代のイタリアアドリア海を舞台に、飛行艇を乗り回す海賊ならぬ空賊と、空賊相手の賞金稼ぎを生業とするブタの姿をした退役軍人操縦士の物語。生家が航空機産業に関係していたため、幼い頃から空を飛ぶことに憧れていた宮崎が、自分の夢として描いた作品である[要出典]。

宮崎自身がその演出覚書において「『疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のための、マンガ映画』であることを忘れてはならない」と記しているように[7]、宮崎は本作品を、「若者をまったく排除して作った(中略)『中年のための映画』」と銘打っている[8]。一貫してアニメを児童のために作ることを自らに課してきた宮崎にとっては、製作後も是非を悩み続ける作品となった。一方で「イタリア人すら忘れてしまった航空機を復活させたり、存在しない空軍を出せたりしたことは道楽としては楽しかった」とも語っている[9]。また、後述のように続編製作を考えるなど、宮崎の思い入れが非常に強いことが伺える。

本編制作中にプロデューサー鈴木敏夫の製作した宣伝用予告映像は、過激な空戦シーンを中心に繋いだ戦争映画さながらのものだった。まるで本編と方向性の異なるイメージで作られたそれに対し、宮崎は猛烈に怒ったという[要出典]。

魔女の宅急便』のヒットにより、宮崎には興行的な成功というプレッシャーがのしかかるようになった。そこで宮崎は次の大作へのステップとして、息抜きになるような30分程度のビデオ作品として、本作品を製作することを提案した[10]。しかし、宮崎の作品は膨大な予算を必要とすることと、鈴木プロデューサーがビデオ作品を作ることに否定的であったことから[10]、史上初の機内上映作品として日本航空に企画が持ち込まれた[11]。なお、後に『紅の豚』となる作品の原案はかなり前から宮崎が温めていたものであり[12]、ビデオ用作品としての企画以前に宮崎が映画化の提案をしたことがあるが、その時点では鈴木プロデューサーは「豚が主人公の映画にお客さんが入るわけがない」と猛反対したという[10]

企画書は1990年2月27日に完成、この時点での予算は2億円だった[12]。並行して月刊誌『モデルグラフィックス』1990年3月号?5月号の、宮崎が担当する連載「宮崎駿の雑想ノート」において、原作となる「飛行艇時代」が連載された。『紅の豚』は「飛行艇時代」のあらすじを大筋で踏襲しているが、「飛行艇時代」にはポルコの過去のエピソードとそれに関わる人物(ジーナとフェラーリン)、ポルコが指名手配されファシスト政権に狙われるシーンなどシリアスな要素はなかった。また、原作ではピッコロ一族の男性が何名か登場するほか、マジョーレ湖で十分にテストをしてから出発するなどの相違点もある。この「飛行艇時代」は、大日本絵画より刊行された『飛行艇時代』(1992年、増補改訂版2004年)に再録されている。1990年9月には宮崎のほかプロデューサーの鈴木敏夫、アニメ監督の押井守ら6名でロケハンが行われた。当時の企画案を反映して、イタリアのテベレ川流域の山岳都市をめぐり、最後にローマを訪ねるというものだった[13]

1990年11月から製作が開始され1991年8月に完成する予定だったが、『おもひでぽろぽろ』の制作が遅れ、1991年3月に宮崎駿1人で準備斑を立ち上げる形でスタートすることとなった[10]。宮崎はこの間に『おもひでぽろぽろ』の製作プロデューサーを務めながら『紅の豚』のコンテを切っていたが[14]、当時勃発した湾岸戦争の影響もあり、ストーリーは当初の能天気な航空活劇とは異なるものとなっていき、当初の時間に収まりきらなくなっていった[10]。そこで鈴木敏夫プロデューサーは日本航空と日本テレビに直談判し、ビデオ用作品を改め映画とする許可を取り付けた[10]。同年5月にはメインスタッフが入り今回は女性スタッフが主流の作品となった。その間に「宮崎作品なら」と東宝徳間書店日本テレビが製作に加わったため、時間も30分から45分、60分から80分、更に90分以上の長編化とし劇場公開されることとなった[15]。このため、劇場公開より先に日本航空国際便機内で先行上映され、劇場公開後も機内上映は続けられた。2007年9月には、日本航空国際線機内で「紅の豚」の再上映が行われた[16][17]

前述の鈴木敏夫のインタビューでは映画化のために日本テレビに直談判したと語られており、日本テレビが製作会社の一員となっているが、当初の予定ではフジテレビによる製作だったことが日本テレビ映画担当社員で本作の製作委員会の一員でもある奥田誠治によって明かされている。日本テレビはスタジオジブリ発足第1作の『天空の城ラピュタ』から放送権を獲得して、『魔女の宅急便』以降は製作も行って来た。そのジブリ作品がフジテレビへ移籍することを脅威に感じた奥田は、鈴木敏夫や宮崎駿に働きかけて動いてもらい、日本テレビが担当するように2、3ヶ月がかりで話を現場からひっくり返したのだという。2004年に出版された日本テレビの社史で奥田は「そこがターニングポイントで、ジブリとうちの関係も決まった感じ」と本作以降、スタジオジブリと日本テレビの関係が盤石になったとしている[18]。以後、NHKが『アーヤと魔女』を2020年に製作して放送するまで地上波でのジブリ作品は日本テレビが独占した。

続編に関して宮崎は、作品完成後の打ち上げで「紅の豚パートIIを製作する」、「そのためにラストのストーリーも変更した」と発表しており[15]、また、『借りぐらしのアリエッティ』製作時のインタビューでは「紅の豚の続編をやりたい」、「題名は『ポルコ・ロッソ 最後の出撃』」と語る一方で、「『やっぱだめだな』と思ったんですよ(笑)。


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