粛慎
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書経

成王既伐東夷、肅慎來賀。王俾榮伯作『賄肅慎之命』。成王は既に東夷を討伐し、粛慎がお祝いを申し上げにきた。王の家来の榮伯は『賄粛慎之命』を作った。


春秋左氏伝

肅慎・燕・亳、吾北土也。(昭公9年)(周の武王がに勝ってから)粛慎・燕・亳は我が国(周)の北の土地である。


国語

仲尼曰「隼之來也遠矣。此肅慎氏之矢也。昔武王克商、通道于九夷、百蠻、使各以其方賄來貢、使無忘職業。於是肅慎氏貢?矢・石?、其長尺有咫。先王欲昭其令?之致遠也、以示後人、使永監焉、故銘其?曰『肅慎氏之貢矢』、以分大姫、配虞胡公而封諸陳。古者、分同姓以珍玉、展親也;分異姓以遠方之職貢、使無忘服也。故分陳以肅慎氏之貢。……」(魯語)(陳国の宮廷で隼が矢に刺されて死んでいるのが見つかり、陳の君主はこのことについて孔子に問うた。)仲尼(孔子)は、「隼は遠くからきたのです。これ(隼に刺さっている矢)は粛慎氏の矢です。昔、(周の)武王がに勝ったとき、周辺の異民族に道が開け、各々(の民族)に自分の得意なものを貢物として持ってこさせることで、職能を忘れさせないようにしました。この時、粛慎氏は(?という木)でできた矢と石弓を持ってきました。(矢の)長さは1尺1咫(およそ36cm)ありました。先王(武王のこと)はその威令と人徳が遠方まで至っているということを明らかにしようと欲し、後の人に示すため、長くこれを見定めさせました。だからその矢の端の弓の弦にかけるところに『粛慎氏の貢物である矢』と記しました。そして大姫(武王の娘)に(弓矢を)分けて、虞胡公と結婚させ、(虞胡公を)ここ陳に封じました(土地を与えたということ)。古くは、(王と)姓が同じ者には、珍しい宝物を分け与えました。親戚を重視したからです。(王と)姓が異なる者には遠くからの(それぞれの民族の)生業に応じた貢物を分け与えました。服従することを忘れさせないためです。(すなわち、遠方の異民族ですら服従するのであるから、姓が異なるからといっても、服従しなくてはならないと思わせようとした)だから陳(という周の王室とは姓が異なる諸侯)には粛慎氏の貢物を分け与えたのです。……」と言った。


山海経

肅慎之國在白民北。有樹名曰雄常。先入伐帝、於此取之。(海外西経)粛慎の国は白民の北にある。雄常という名前の木がある。

晋の郭璞の注によると、粛慎の習慣として、衣服は着ないが、中国で、聖帝が即位すると、雄常の木の皮を剥いで、衣服にするとされている。

大荒之中有山、名曰不咸。有肅慎氏之國。(大荒北経)大荒の中に不咸をいう名の山がある。粛慎氏の国がある。


日本

日本で最初の正史日本書紀にも粛慎のことが記されている。ただ、日本書紀に出てくる粛慎が、中国の古典に出てくる粛慎と同一のものであるとする確証はない。日本書紀に粛慎が出てくる箇所は大きく分けて、以下のように3ヶ所ある。
欽明天皇の時に佐渡島へ粛慎が来たこと

斉明天皇の時の阿倍比羅夫の粛慎討伐

天武天皇持統天皇の時の粛慎の来訪と官位を与えたこと

日本書紀に出てくる粛慎についてどのような集団かという説はさまざまあるが、おおむね以下のようにまとめられよう。

蝦夷(えみし)と同じ。粛慎と呼ぶのは中国の古典にも出てくる由緒ある名前であるからとする。

中国の文献に出てくる粛慎と同じ民族であるツングース系の民族。

蝦夷とも中国の文献に出てくる粛慎とも違う民族。(ウィルタニヴフなど)

また北海道オホーツク海沿岸などに遺跡が見られるオホーツク文化と関連すると考える人もいる。


欽明朝の粛慎

参考原文・現代語訳

粛慎についての日本での最も古い報告は、欽明天皇5年(544年12月のものである。そこでは、佐渡島に粛慎人が来着したと書かれている。

ただ、このことが本当に起きたことかどうかはにわかには信じがたい。後の粛慎討伐の軍勢が、佐渡島の対岸の越(こし、今の北陸地方)の国から起こったことを考えると、後世の粛慎討伐の記録から後付けで作られた記録であるとも考えられる。


斉明朝の粛慎討伐

斉明天皇の時代は、さかんに蝦夷を支配下におこうとした時代であった。その一環として、越の国の国守の阿倍臣による数回の蝦夷・粛慎討伐がある。日本書紀には6件の阿倍臣による征討についての記事がある。
斉明天皇4年(658年)4月……180艘の船を率いて蝦夷を討伐する

斉明天皇4年(658年)是歳(詳しい月日は不明ということ)……粛慎討伐とヒグマの献上参考原文・現代語訳

斉明天皇5年(659年)3月……180艘の船を率いて蝦夷を討伐する

斉明天皇5年(659年)3月分注……粛慎討伐と捕虜献上参考原文・現代語訳

斉明天皇6年(660年)3月……粛慎討伐参考原文・現代語訳

斉明天皇6年(660年)5月……粛慎の捕虜献上参考原文・現代語訳

この記事に付されている、実際の日本書紀中の粛慎についての記述を見ればあきらかだが、これらの記事は、良く似た内容をもっている。例えば、討伐の期間はみな3月から4月になっている。このため、これらの討伐が実際に何回行われたかについては、諸説ある。

例えば、本居宣長は、もともと討伐は一回しかなかったとした。4年・5年・6年と3回行ったように書かれているのは、壬申の乱などによる記録の混乱で4年・5年・6年と3種類の伝承ができてしまい、日本書紀の編者がそれら3種の伝承を無批判に取り入れたからだとした。

なお、阿倍臣が粛慎討伐に向かった場所は渡島(わたりしま)と書かれているが、それがどこであるかはさだかではない。ただ、ヒグマは本州にはおらず、北海道にしかいない。そして、阿倍臣がヒグマを献上したとの記録があることから、渡島を北海道であるとする説もある。


天武・持統朝の粛慎

天武5年(676年)11月には、新羅の使節が粛慎を伴って来訪したとの記録(参考原文・現代語訳)があり、持統8年(694年)には粛慎人に官位を与えたという記録(参考原文・現代語訳)がある。この官位が与えられた粛慎は新羅の使節とともに来た者たちだと考えられている。また、持統10年(696年)には、蝦夷とともに粛慎への賜与の記録(参考原文・現代語訳)が残っている。


日本書紀中の粛慎についての記述


欽明天皇5年(544年)12月

越國言。於佐渡嶋北御名部之碕岸有肅愼人。乘一船舶而淹留。春夏捕魚充食。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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