粛慎
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斉明朝の粛慎討伐

斉明天皇の時代は、さかんに蝦夷を支配下におこうとした時代であった。その一環として、越の国の国守の阿倍臣による数回の蝦夷・粛慎討伐がある。日本書紀には6件の阿倍臣による征討についての記事がある。
斉明天皇4年(658年)4月……180艘の船を率いて蝦夷を討伐する

斉明天皇4年(658年)是歳(詳しい月日は不明ということ)……粛慎討伐とヒグマの献上参考原文・現代語訳

斉明天皇5年(659年)3月……180艘の船を率いて蝦夷を討伐する

斉明天皇5年(659年)3月分注……粛慎討伐と捕虜献上参考原文・現代語訳

斉明天皇6年(660年)3月……粛慎討伐参考原文・現代語訳

斉明天皇6年(660年)5月……粛慎の捕虜献上参考原文・現代語訳

この記事に付されている、実際の日本書紀中の粛慎についての記述を見ればあきらかだが、これらの記事は、良く似た内容をもっている。例えば、討伐の期間はみな3月から4月になっている。このため、これらの討伐が実際に何回行われたかについては、諸説ある。

例えば、本居宣長は、もともと討伐は一回しかなかったとした。4年・5年・6年と3回行ったように書かれているのは、壬申の乱などによる記録の混乱で4年・5年・6年と3種類の伝承ができてしまい、日本書紀の編者がそれら3種の伝承を無批判に取り入れたからだとした。

なお、阿倍臣が粛慎討伐に向かった場所は渡島(わたりしま)と書かれているが、それがどこであるかはさだかではない。ただ、ヒグマは本州にはおらず、北海道にしかいない。そして、阿倍臣がヒグマを献上したとの記録があることから、渡島を北海道であるとする説もある。


天武・持統朝の粛慎

天武5年(676年)11月には、新羅の使節が粛慎を伴って来訪したとの記録(参考原文・現代語訳)があり、持統8年(694年)には粛慎人に官位を与えたという記録(参考原文・現代語訳)がある。この官位が与えられた粛慎は新羅の使節とともに来た者たちだと考えられている。また、持統10年(696年)には、蝦夷とともに粛慎への賜与の記録(参考原文・現代語訳)が残っている。


日本書紀中の粛慎についての記述


欽明天皇5年(544年)12月

越國言。於佐渡嶋北御名部之碕岸有肅愼人。乘一船舶而淹留。春夏捕魚充食。彼嶋之人言非人也。亦言鬼魅、不敢近之。越(こし、今の北陸地方)の国からの報告によれば、佐渡島の北の御名部(みなべ)の海岸に粛慎人がおり、船に乗ってきて留まっている。春夏は魚をとって食料にしている。かの島の人は人間ではないと言っている。またオニであるとも言って、(島民は)敢えてこれ(粛慎人)に近づかない。

嶋東禹武邑人採拾椎子、爲欲熟喫。着灰裏炮。其皮甲化成二人、飛騰火上一尺餘許。經時相闘。邑人深以爲異、取置於庭。亦如前飛相闘不已。有人占云「是邑人必爲魃鬼所迷惑。」不久如言被其抄掠。島の東の禹武(うむ)という村の人が椎の実を拾って、これを煮て食べようと思った。灰の中に入れて炒った。その皮が変化して2人の人間になり、火の上を一尺ばかり飛び上がった。時を経て相戦った。村の人はいぶかしく思い、庭に置いた。するとまた前のように飛んで相戦うのをやめない。ある人が占って「この村の人はきっとオニに惑わされよう。」と言った。それほど時間のたたないうちに、(占いで)言ったように、物が掠め取られた。

於是肅愼人移就瀬波河浦。浦神嚴忌。人敢近。渇飮其水。死者且半。骨積於巖岫。俗呼肅愼隈也。そこで、粛慎人は瀬波河浦(せなみかわのうら)に移った。浦の神の霊力は強かった。人は敢えて近づかなかった。のどが渇いたのでその(浦の)水を飲んだ。死者は半分になろうとしていた。骨は岩穴にたまった。俗に粛慎隈(みしはせのくま)と呼ぶ。


斉明天皇4年(658年)

是歳、越國守阿倍引田臣比羅夫討肅愼、獻生羆二・羆皮七十枚。この年、越の国守である阿倍引田臣比羅夫(あへのひきたのおみひらふ)が粛慎を討って、生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上した。


斉明天皇5年(659年)3月

或本云、阿倍引田臣比羅夫與肅愼戰而歸。獻虜卅九人。ある本には、阿倍引田臣比羅夫が粛慎と戦って帰った。捕虜を39人献上した。

この文は日本書紀の本文ではなく、分注に書かれている。


斉明天皇6年(660年)3月

遣阿倍臣<闕名>、率船師二百艘伐肅愼國。阿倍臣以陸奥蝦夷令乘己船到大河側。阿倍臣<名前は不明>を遣わして200艘の船を率いて粛慎国を討伐させた。阿倍臣は陸奥の蝦夷を自分の船に乗らせて、大河のほとりに着いた。

於是渡嶋蝦夷一千餘屯聚海畔、向河而營。々中二人進而急叫曰「肅愼船師多來將殺我等之故、願欲濟河而仕官矣」。そのとき、渡島の蝦夷が1000人ばかり海岸にたまって、河に向かって、いついていた。その中の2人が進み出て突然叫んで「粛慎の水軍が多く来て私達を殺そうとしているので、河を渡って(朝廷に)仕えたいと思っています、お願いします。」と言った。

阿倍臣遣船喚至兩箇蝦夷、問賊隱所與其船數。兩箇蝦夷便指隱所曰「船廿餘艘」。即遣使喚而不肯來。阿倍臣は船を遣わし、2人の蝦夷を召し、賊の潜んでいるところとその船の数を問うた。2人の蝦夷は即座に隠れているところを指して、「船は二十艘あまりです」と言った。そこで、(粛慎に)使いを遣わせて呼んだが、来ようとしなかった。

阿倍臣乃積綵帛・兵・鐵等於海畔而令貪嗜。肅愼乃陳船師、繋羽於木、擧而爲旗。齊棹近來停於淺處。從一船裏出二老翁。廻行熟視所積綵帛等物。便換著單衫、各提布一端。乘船還去。俄而老翁更來脱置換衫、并置提布。乘船而退。そこで、阿倍臣は色とりどりの絹・武器・鉄などを海岸に置き、(粛慎に)欲しがらせようとした。そこで、粛慎は水軍を連ねて、羽を木にかけて、挙げて旗とした。(粛慎は船の)棹をそろえて近づき、浅いところに止まった。ある船の中から2人の老人が出てきた。めぐりり行って、置いてある絹などのものをとくと見た。すると、単衣替えて着て、各々布を一端持っていった。(粛慎は)船に乗って帰っていった。にわかに、老人がまた来て、服を脱ぎ、あわせて持っていった布を置いた。船に乗って退却していった。

阿倍臣遣數船使喚、不肯來。復於弊賂弁嶋。食頃乞和、遂不肯聽。<弊賂弁、度嶋之別也。>據己柵戰。于時能登臣馬身龍爲敵被殺。猶戰未倦之間。賊破殺己妻子。阿倍臣は、いくつかの船を遣わして、(粛慎を)呼んだが、来なかった。(粛慎は)弊賂弁嶋(へろべの島)に帰った。しばらくして、(粛慎が)講和を請うたものの、ついにあえて許さなかった。<弊賂弁(へろべ)は、渡島の一部である。>(粛慎は)自分の砦によって戦った。このとき、能登臣(のとのおみ)馬身龍(まむたつ)が敵(粛慎)に殺された。まだ戦っていやにならないうちに、賊は敗れて自らの妻子を殺した。


斉明天皇6年(660年)5月

又阿倍引田臣<闕名>獻夷五十餘。(中略)以饗肅愼卅七人。また阿倍引田臣<名前は不明>が夷を50人あまり献上した。もって粛慎の37人にご馳走した。


天武5年(676年)11月

丁卯、新羅遣沙?金清平請政。(中略)送清平等於筑紫。是月、肅愼七人從清平等至之。3日に新羅が沙?(ささん、新羅の8等官)の金清平を遣わし、まつりごとの様子を言上した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki