フィリピンでの最初の戦闘は5月1日のマニラ湾の戦いである。ジョージ・デューイ提督率いるアメリカ太平洋艦隊が、マニラ湾でパトリコ・モントージョ将軍率いる 7 隻のスペイン艦隊を攻撃した。6 時間でスペイン艦隊は旗艦を含む 3 隻が沈没、4 隻が炎上するなど壊滅状態に陥ったが、アメリカ艦隊の被害は負傷者 7 名のみとほぼ無傷であった 。 エミリオ・アギナルド率いるフィリピンの国家主義者は米艦隊とともに独立運動を再開し、スペイン軍の多くは降伏した。フィリピンの革命軍は多くの戦闘においてアメリカ軍と共闘したが、マニラに入城する際アメリカ軍がフィリピン兵の入城を妨害する事件が起こり、米比戦争の原因の一つとなった。
5月19日、大西洋側のキューバではパスクワル・セルベラ提督率いるスペイン大西洋艦隊がサンチャゴ湾に入港した。ウィリアム・サンプソン提督率いるアメリカ大西洋艦隊はサンチャゴ湾を封鎖し、陸海軍共同でスペイン艦隊を攻撃することになる(この状況を観戦武官として秋山真之が視察しており、このサンチャゴ閉塞作戦は後に日露戦争における日本海軍の旅順港閉塞作戦の参考とされた。)。
キューバに駐屯していたスペイン軍は約 10 万を数えたが、サンチャゴ湾付近には 14,000 人ほどしか配置されていなかった。アメリカの陸上兵力は義勇騎兵隊であるラフ・ライダーズ(荒馬乗り隊)連隊を含む約 17,000 人である。陸上での大きな戦いは7月1日だけだったが、要所であるサン・ホアン高地が陥落するなど一日で決着がついた。この時ラフ・ライダーズ連隊の中佐としてサン・ホアン高地(サンファン・ヒル)の戦いを指揮し、戦争の英雄となったのがセオドア・ルーズベルトである。米軍はガルシア将軍 (Calixto Garcia) によって率いられた独立支持者によってキューバで援助された。
7月3日にスペイン艦隊が湾外に脱出したところ、アメリカ海軍に捕捉され攻撃を受け沈没、座礁、降伏などで全滅した。米軍はスペイン艦隊を撃破しキューバ周辺のスペインに管理された水路を破った。これはスペイン軍の再補給を妨げ米軍が相当兵力を安全に上陸させることを可能にした。
地上戦は、スペイン軍に対するよりも熱および疾病への対処の方が問題であった。一か月以内に米軍は島を入手した。
7月25日に、米軍はプエルトリコに上陸した。
グアム島
1898年6月20日、アメリカ海軍の巡洋艦チャールストンおよび輸送船3隻の艦隊が当時スペインの植民地だったグアム島をカノン砲で砲撃し、これを占領しようとしたがスペイン側の司令官は戦争が始まったことを知らず、司令官自身がチャールストンに現れて降伏の意思を伝え、島にいた54名のスペイン兵は捕虜となり、グアムは占領された。
スペインは、太平洋艦隊、大西洋艦隊を失い戦争を継続する能力を失った。交戦状態は8月12日に停止した。形式上の和平条約は1898年12月10日にパリで調印され(パリ条約)、1899年2月6日にアメリカ上院によって批准された。アメリカは、フィリピン、グアムおよびプエルトリコを含むスペイン植民地のほとんどすべてを獲得し、キューバを保護国として事実上の支配下に置いた。以降、アメリカの国力は飛躍的に拡大していき、南北アメリカ大陸と太平洋からスペインの影響力が一掃され、代わりにアメリカが入れ替わって影響力を持つという、覇権の移譲とも取れる流れになっている。スペインは戦後、植民地を失ったために国力が低下し、新興国家アメリカにあっけなく敗れたことから、欧州での国際的地位も発言力も同時に失った。ルネッサンスから始まったポルトガル・スペインの帝国主義が破綻し、産業革命に支えられた新しい帝国主義へ完全に移り変わった瞬間とも取れる。
1898年8月14日に、11,000 人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られた。アメリカがスペインに代わって国の統治を始めると同時に、アメリカとフィリピンの戦争が始まった(米比戦争)。戦争はフィリピン国家主義者の独立に対する望みを絶つために行われ、何千もの軍人、民間人の死傷者が生じた。
米西戦争はアメリカがヨーロッパの帝国のように、植民地を管理することを始める「アメリカ帝国」の始まりとされる。
連邦議会は開戦前に、キューバの独立を支持してこれを討論の後承認した。アメリカ軍は1909年1月28日までキューバを占領した。アメリカはスペイン植民地のプエルトリコ、フィリピンおよびグアムを併合した。外国に植民地を持った「アメリカ帝国」についての考えは、マッキンレー大統領と帝国主義賛同派の間で、国内で激しく討議された。アメリカの大衆の大部分は植民地の所有を支持した。しかし、マーク・トウェインのような多くの率直な批評家もいた。
さらに、米西戦争はイエロー・ジャーナリズムの影響が大きかったことで有名である。ウィリアム・ランドルフ・ハーストのニューヨーク・ジャーナル紙とジョーゼフ・ピューリツァーのニューヨーク・ワールド紙の 2 紙は発行部数競争で熾烈な争いを行い、無責任なニュースをでっち上げたりもした。このような競争の結果、ワールド紙が 15,000 部、ジャーナル紙が 1,500 部程度の発行数だったのが、マニラ湾の戦いの時には 160 万部まで伸びた。オーソン・ウェルズは、映画『市民ケーン』の中でこの様子を皮肉った。
この短い戦争の、もう一つの興味深くほとんど注目されなかった影響は、アメリカの北部と南部の関係を固める役目をしたということである。この戦争は、1865年の南北戦争の終了以来初めて両側に共通の敵を与えた。1890年代は北軍支持者と南部連邦支持者の間の和解の期間で、北部と南部の政治家の政治的な調和を増加させた。1890年代はさらに、北部における人種差別の再燃とジム・クロウ法の可決による白人と黒人の分離を増加させた。それは1896年のプレッシー対ファーガソン裁判の最高裁判所による判決で最高潮に達して、その「分離すれども平等」主義を法律の中へ成文化した。
アメリカ退役軍人協会からのデータによれば、退役軍人の最後の生き残りネーサン・E・クック (Nathan E. Cook) は、1992年9月10日に 106 歳で死去した。
関連項目
ウィリアム・ランドルフ・ハースト
グァンタナモ米軍基地