1867年、アウスグライヒによりオーストリア=ハンガリー帝国が誕生した。ハプスブルク家の家長はオーストリア皇帝とハンガリー王を兼任し、ハンガリー(トランスライタニア)は(軍事・外交・財政を除いて)非常に広範な自治権を得た。しかしこの大規模な改革によってすら、帝国内の複雑な民族問題が解決されるには至らなかった。当時の帝国内には少なくとも9言語を話す16の民族グループ、および5つの主な宗教が混在していた。
二重帝国の最大の関心は東方問題にあった。帝国各地で台頭するスラブ人の民族主義運動は、二重帝国の政府を主導するドイツ人とマジャール人にとって悩みの種だった。1912年から1913年にかけて行われたバルカン戦争の結果、隣国のスラブ人国家であるセルビアの領土が約2倍に拡張され、帝国は国内のスラブ民族の動きを非常に警戒していた。一方でセルビア人民族主義者は、帝国南部は南スラブ連合国家に吸収されるべきだと考えていた。この冒険的民族主義に対して、自らスラブ人の守護者を任ずるロシアは一定の支持を与えていた。オーストリア政府は、スラブ人民族主義運動が他の民族グループへと伝播し、さらにロシアが介入する事態を危惧していた。
ドイツ帝国は1871年に普仏戦争でフランスに勝利し成立した。ドイツ宰相オットー・フォン・ビスマルクは、フランスを国際的に孤立化させてアルザス・ロレーヌ奪回の意図を挫き、ドイツの安全を図る目的から、1882年にオーストリア、イタリアと三国同盟を締結、1887年にはロシア帝国と独露再保障条約を締結し、ビスマルク体制を構築した。しかし1890年にビスマルクが失脚すると、独露再保障条約は延長されなかった。さらに1894年、フランスとロシアは露仏同盟を締結し、ドイツが対フランス・対ロシアの二正面作戦に直面する可能性が高まった。
ドイツ参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェンは、二正面作戦に勝利するための手段としてシュリーフェン・プランを立案した。これは広大なロシアが総動員完結までに要する時間差を利用するもので、ロシアが総動員を発令したならば、直ちに中立国ベルギーを侵略してフランス軍の背後に回りこみ、対仏戦争に早期に勝利し、その後反転してロシアを叩くという計画だった。しかしシュリーフェン・プランは、純軍事技術的側面を優先させて外交による戦争回避の努力を無視し、またベルギーの中立侵犯という国際的汚名やイギリスの参戦を招く危険性がありながら押し通すというものだった。シュリーフェン・プランは、ドイツを世界規模の大戦争へと突き落とす可能性の高い、きわめて危険な戦争計画でもあった。
イギリスは伝統的にブリテン島対岸の低地諸国を中立化させる政策を実行してきた。1839年のロンドン条約において、イギリスはベルギーの独立と中立を保証していた。ベルギーの中立を守るためには、フランスであれドイツであれ、先にベルギーの中立を侵犯した側の敵側に立って参戦すると表明していた。
だが19世紀末になると、ドイツの国力の伸張により、次第にイギリスとドイツとの対立関係が深まっていった。イギリスとドイツは海上における覇権を競って建艦競争を繰り広げた。イギリスは覇権維持のため、1904年にフランスとの長年の対立関係を解消して英仏協商を締結し、他にも1902年に日英同盟を、1907年に英露協商を締結した。こうしてヨーロッパ列強は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商との対立を軸とし、さらに多数の地域的な対立を抱えるという複雑な国際関係を形成した。
サラエボ事件とロシア総動員オーストリア皇太子夫妻を暗殺し警備に取り押さえられるセルビア人民族主義者ガヴリロ・プリンツィプ(右端)
1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の世継、フランツ・フェルディナント大公が、ボスニアの首都、サラエボでセルビア人民族主義者ガヴリロ・プリンツィプにより暗殺された。オーストリアのレオポルト・フォン・ベルヒトルト外相は懲罰的な対セルビア戦を目論み、7月23日セルビア政府に10箇条のいわゆるオーストリア最後通牒を送付して48時間以内の無条件受け入れを要求した。セルビア政府はオーストリア官憲を事件の容疑者の司法手続きに参加させることを除き、要求に同意したが、オーストリアはセルビアの条件付き承諾に対し納得せず、7月25日に国交断絶に踏み切った。躊躇するイシュトヴァーン・ティサ首相と皇帝の反対を押し切る形で、7月28日にセルビアに対する宣戦布告が行われた。
ロシア政府は1909年に、オーストリアのボスニア併合を承諾する代わりにセルビア独立を支持することを誓約していた。オーストリアのセルビアへの宣戦布告を受けて、軍部は戦争準備を主張し皇帝ニコライ2世へ圧力を掛けた。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とロシア皇帝ニコライ2世の間の電報交渉[3]は決裂。ロシア政府は、部分動員では手遅れになる可能性を想定し、7月31日に総動員令を布告した。ドイツはロシアに動員解除を要求したが、ロシア政府は動員を解除した場合には短期間で再び戦時体制に戻すことは難しいと考えたため、要求に応じなかった。
ドイツ政府は、三国同盟に基づいて対応を相談したオーストリアに対し、セルビアへの強硬論を説いた。