アラブ諸国は武器の供給と資金融資によってこの戦争に関与した。どの程度の支援が成されたかは定かでないが、複数の情報筋によると、イラクはエジプトへハンター戦闘機の小隊を派遣し、戦争が始まると18,000名の兵士からなる師団と、数百台の戦車、ミグ戦闘機が派遣された。戦車部隊はゴラン高原中央部に展開した。サウジアラビアとクウェートは金融支援を行い、幾つかの戦闘部隊を派遣した。サウジアラビアは少数の部隊をシリアに派遣し、ヨルダンは武装師団をシリアへ派兵し、イスラエル軍とゴラン高原で交戦した。
1971年から73年までリビアはミラージュV戦闘機と約10億ドルの支援を蜜月関係のエジプトに行った。アルジェリアは戦闘機と爆撃機の部隊、武装旅団、多数の戦車を派遣した。チュニジアは1,000名を越える兵士を派遣し、彼らはエジプト国防軍と共にナイル川の三角州で配置された。スーダンは3,500名の兵士を派遣し、モロッコは三個旅団を最前線に派遣した。
イスラエルは奇襲攻撃からわずかの期間にシナイ半島西部とゴラン高原の一部を失い、逆に自国領土まで侵攻の危険が出るほどの状態となった。しかし、アメリカから予備役用兵器の供給を受けるなど体制を整えて反撃に出る。10月10日からイスラエル軍はゴラン高原のシリア軍に大攻勢をかけ、シリア師団の一部は壊滅、防戦一方となったシリア軍はシリア領内に撤収するが、イスラエル軍は追撃を止めずに首都ダマスカスへ接近した。しかし、ダマスカスのわずか手前で進軍を止め、突入しなかった。ダマスカスを陥落させると、ソ連軍がイスラエルに対して宣戦する用意があるとの情報がもたらされたからとされている。
シリアのアサドはサダトに対して、シリアの窮状を救うために、シナイ半島西部からより内陸へ侵攻するように要請したが、サダトはそれ以上侵攻するつもりは無かった。サダトの目的はイスラエル占領ではなく、シナイ半島を返還すればイスラエルには手を出さないと世界に誇示する事だったからである。シナイ半島戦線
シリアでの進軍を止めたイスラエル軍は、転じてシナイ半島でも攻勢をかけた。シナイ半島西岸中央部で激戦が展開され、エジプト軍が撃破された。スエズ運河中央部をイスラエル軍が10月16日に逆渡河し、運河ごしにエジプト軍の半数を包囲し、首都カイロへの進撃姿勢をみせた。ただし、ダマスカス同様に突入しなかった。
アラブ主要国は重要な産油国でもあり、1971年から73年までの間にリビア、イラク、イランといった産油国が次々に石油資源の国有化を発表していた。10月16日、これら以外の石油輸出国を含め、OPECはイスラエルを支援している国(アメリカ合衆国とオランダ)に対する石油の輸出を禁止する事、原油価格を上昇させる事を宣言した。これにより、それまでは供給過剰気味であったこともあり非常に安価であった原油価格は最高で4倍にまで高騰し、石油禁輸の対象にならなかった国及び世界経済にも深刻な影響を与えることとなった(オイルショック・石油危機・石油ショック)。しかし、それまで欧米のオイルメジャーが独占的に原油価格を操作してきた実情をみれば、自国の資源を自国で管理したいという資源ナショナリズムの高まりがもたらした結末であり、この事件をきっかけにして、原油価格の管理権はメジャーからOPECへ移った。
石油価格の高騰は、石油の国内生産が消費量の1%に満たない日本においても影響は深刻で、重工業を中心に大打撃を受け、高度経済成長時代が終焉した。石油は燃料のようなエネルギー源のみならず、化学工業によって生産される多くの化学製品の原料でもあり、この意味でも原油(石油)価格の高騰、欠乏という事態は深刻であった。しかし、この事件によって遠く離れた中東での紛争が自国に無関係でないことを一般の日本人も自覚することとなった。
停戦停戦後の占領地の変化
赤はエジプト軍、緑はイスラエル軍により新たに占領された。
イスラエル反攻に国際世論は停戦の方向へ向かい、ようやく立った米国とソ連の仲裁によって10月22日に停戦が宣言された。
初めてアラブの侵攻を受けたイスラエル社会は激しく揺さぶられた。奇襲を予想しなかった国防の準備不足は、国防大臣モーシェ・ダヤンの責任となり、世論は彼の辞職を要求した。最高裁長官は紛争中にダヤンの職務調査を指示した。委員会は首席補佐官の辞職を推奨したが、ダヤンの判断を尊重した。翌1974年にダヤンはゴルダ・メイア首相に辞表を提出した。
一方、スエズ逆渡河作戦を成功させた指揮官アリエル・シャロンは国民的人気を博し、後の首相就任に繋がる事となった。またエジプトでも、前の戦争にて壊滅したエジプト空軍を再建して緒戦の勝利をもたらした空軍司令官ホスニー・ムバーラクがやはりヒーローとなり、1975年にはサダトの下で副大統領に就任、後の大統領職に繋がっている。
1974年1月、イスラエルとエジプトはスエズ運河地帯の兵力引き離し協定に調印した。国連停戦監視団がエジプトとイスラエルの停戦を監視し、二国間の国境巡回警備を行うこととなった。
イスラエルの統計によれば2,688名のイスラエル兵が戦死し、それ以上の者が負傷した。314名のイスラエル兵が降伏しアラブ側の捕虜となった(242名がエジプト軍の捕虜となり、68名がシリア軍、4名がレバノン軍の捕虜となった)。アラブ兵は8,738名がイスラエルに降伏、捕虜となった(8,372名がエジプト兵、392名がシリア兵、13名がイラク兵、6名がモロッコ兵)。全ての戦時捕虜は1974年中頃までに交換された。
特にイスラエル機甲師団の損失は(同国の人口を考えれば)甚大であった。イスラエルの ⇒第188“バラク”機甲旅団はゴラン高原南部における対シリア国境防衛で重要な役割を果たしたが、112名の兵士が同地で戦死した。これはイギリスからの新型戦車チーフテン購入計画が頓挫して更新計画に狂いが生じていた事、航空部隊がエジプトの対空兵器の餌食となり航空支援が不十分だった事、エジプト・シリアが使用したソ連製対戦車ミサイルに対する対抗手段を持っていなかった事などに起因している。