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レーニンとともにロシア革命を指導したトロツキーは、1924年のレーニンの死後、ソ連邦共産党書記長となったスターリンが打ち出した「一国社会主義建設」(それまでのレーニンらの主張する「革命がロシアからヨーロッパ、そして世界に波及しないかぎり革命ロシアは生き残れない」という方針に対してスターリンは「革命が波及しなくてもロシア一国で社会主義は建設できる」と主張した)論に対して「世界革命路線の堅持」(永続革命論)を対置し「左翼反対派」を結成して激しく反対した。この「左翼反対派」が第四インターナショナルの源流とされる。
スターリンは書記長という権力を利用して党内で多数派を形成し、トロツキーを政府・党の閑職に追いやり、1927年には「ロシア大革命十周年記念式典」に際しての「左翼反対派」の「スターリン打倒」を掲げたデモ行進を「反党活動」であるとしてトロツキーを共産党から除名し、1929年にはソ連国外に追放する。このかんスターリンのイギリスの労働運動への指導や中国革命の方針などをめぐって、スターリン派とトロツキーら「左翼反対派」のあいだで激しい論争が繰り広げられていた。トロツキーは、スターリンの指導を「日和見主義と冒険主義のジグザグ」などと批判したが、国外追放された時点においても「共産党を割って出るのではなく、内部に留まって改革するべき」と主張していた。
当時ドイツでは、ヒトラー率いるナチス(ドイツ国家社会主義労働者党)が急速に勢力を伸ばしていた。トロツキーは、ドイツの事態に対して「ドイツ社会民主党とドイツ共産党の統一戦線の形成によってナチスに対抗するべき」と主張したが、スターリンとドイツ共産党指導部は「社会民主党もファシズムの一種でありナチスの双生児」といういわゆる「社会ファシズム論」によってトロツキーの主張を一顧だにしなかった。そして、1933年のナチスによる権力掌握によって、ドイツ共産党がほとんど抵抗できないまま暴力的に弾圧され急速に解体されるという事態に際して、トロツキーは「コミンテルンは死んだ。もはや誰にも生き返らせることは出来ない」として、はじめて「新しいインターナショナルの創設」を提起する。
1936年に「大粛清」を開始したスターリンは、自らに反対する者、あるいは抹殺してしまいたい者に対して「トロツキスト」というレッテルを多用した。ここで言う「トロツキスト」とは「ソ連邦の破壊を目論むトロツキーを頭目とする反革命分子で帝国主義の手先の群れ」と定義されたが、実際は粛清された多くの者はトロツキーあるいは「左翼反対派」の組織とは無関係であった。このレッテルとしての「トロツキスト」という用語は、「スパイ挑発者」あるいは「左翼を装った反革命」を意味するものとして、世界各国の共産党によって第二次大戦後も長らく使用されることになる。
レフ・トロツキー (1879-1940)
1938年にフランス、ベルギー、アメリカ、オランダなど、各国のスターリニズム化した共産党内から派生した「左翼反対派」を源流とするトロツキスト・グループが参加した「第四インターナショナル創設国際会議」によって、第四インターナショナルは結成を宣言し「スターリニズムの党に代わって世界革命を目指す新しい共産党の建設」を訴える「過渡的綱領」を採択した。トロツキーは「戦争が第四インターナショナルを急速に押し上げる」と考えたが、既成の各国共産党の「トロツキスト=裏切り者」キャンペーンと各国政府の弾圧、とりわけナチス占領下の各国における過酷な弾圧のなかで、小グループに留まり続けることになった。しかし、第二次大戦のさなかにおいて第四インターナショナルの組織は、フランス、ベルギー、オランダなどではナチス占領下でレジスタンス運動の一翼を担った。後の第四インターナショナルの指導者の一人となるベルギー人のエルネスト・マンデル(1923-1995)は15歳で第四インター系の反ナチ・レジスタンス組織に参加、ナチスの捕虜となるも強制収容所から脱出するという経験を持つ。
第四インターナショナル内部の論争と分裂
第四インターナショナルの政治的特徴として「プロレタリア革命による帝国主義の打倒」とともに「ソ連邦は、官僚を追放する政治革命は必要ではあるが、依然としてブルジョアジーによる生産手段の所有を廃した労働者国家であることから帝国主義の包囲・攻撃からは世界の労働者階級はソ連邦を防衛しなければならない」(「官僚によって歪められ、堕落した労働者国家」論)という原則が挙げられる。第四インターナショナルは、様々な局面でこの「原則」をめぐって、あるいは各国に存在する社会民主主義政党や共産党などの大組織に組織的・目的意識的に加入して大組織構成員を自陣営に獲得する「加入戦術」の是非などをめぐって、分裂を繰り返すことになる。
1939年に、スターリンによる独ソ不可侵条約締結とバルト三国への侵攻をめぐって、アメリカ支部である社会主義労働者党(SWP)内部で、トロツキーが定式化した「ソ連=官僚によって歪められ、堕落した労働者国家」論を否定する部分が発生する。「ソ連=官僚主義集産国家」論を唱えたマックス・シャハトマンやジェームズ・バーナムらは1940年にSWPから分裂してアメリカ労働者党(WP)を結成する。WPは直後に「シャーマン派」という分派と再分裂する。ちなみに「ネオコンのルーツはトロツキズム」として例に挙げられるネオコンの総帥でイデオローグと言われるアーヴィング・クリストルが一時期所属したのは、この「シャーマン派」である。
1953?54年にかけて、主にスターリン死去とそれに伴うフルシチョフによる「非スターリン化」の評価をめぐって、アメリカSWPがインターナショナルから分裂。独自の国際組織「 第四インターナショナル国際委員会多数派」を形成する(1963年にマンデル派と再統一して統一書記局派を形成する)。
1952年にフランス支部:国際主義共産党(ICP)内において、主流派によって提起された「加入戦術」に反対するランベール派が脱退。国際組織として「国際共産主義組織-OCI」を形成する。後にフランスの首相となるリオネル・ジョスパンが一時期所属したのはこのランベール派で、現在のフランス労働党である。
現在の各国における主な第四インターナショナル(トロツキスト)組織
第四インターナショナル統一書記局派
United Secretariat of the Fourth International(USFI) ⇒(ウェブサイト)
いわゆる「マンデル派」。かつては「唯一の世界革命前衛」を自認していたが、現在は「小さくとも不可欠な世界革命潮流の一つ」と自己規定している。現在、反グローバル化運動への参画に力を入れ、各国における「反資本主義左翼統一戦線」の形成を当面の方針にしている。また、社会主義革命運動におけるエコロジー運動やレズビアン・ゲイなどの性的少数者解放運動の意識化と実践を訴えている。
オーストリア - Socialist Alternative (Sozialistische Alternative, SOAL)
アルジェリア - Socialist Workers Party
ベルギー - Socialist Workers Party ― Socialistische Arbeiderspartij (SAP) - Parti Ouvrier Socialiste (POS)
ブラジル - Socialist Democracy ― Democracia Socialista (DS)
ブラジル労働者党(PT)内の左派潮流として活動。ルラ政権の評価をめぐり、現在PTに留まる部分と、左翼独自勢力として社会主義と自由党(Party of Socialism and Liberty ― P-SOL)を形成する部分とに二方面の活動を展開している。P-SOLは2006年のブラジル大統領選において、ルラに対抗してエロイザ・エレナを擁立して6.8%の得票を獲得した。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:Smilegreen