ナポレオンはジュネーヴに軍を集結。1800年5月、3万7,000を率いてグラン・サン・ベルナール峠を越え北イタリアへ進出した(ダヴィッド作『サン・ベルナール峠を越えるナポレオン』はこのときの情景を描いたものである)。その頃、オーストリア軍はジェノヴァに篭城するマッセナ指揮下のフランス軍部隊を攻囲中であった。ナポレオンはオーストリア軍の背後に出てミラノとパヴィアを占領するが、ジェノヴァのフランス軍部隊は限界に達し6月4日に開城。オーストリア軍主力はトリノに集結した。
フランス軍によって退路を遮断される形となったオーストリア軍司令官のメラスは東進を決意。6月14日、両軍はアレッサンドリア近郊のマレンゴにおいて遭遇戦となった。このマレンゴの戦いでフランス軍は窮地に追い込まれるが、ドゼーの別働隊が増援に駆けつけ逆襲に成功する。しかし勝利と引き換えにドゼーは命を落としたのだった。
ライン方面でも、イタリア方面軍司令官からライン方面軍司令官となっていたモローが、6月19日のホッホシュタットの戦いでオーストリア軍に勝利し、7月にはミュンヘンまで迫る勢いを見せた。フランスとオーストリアは7月15日に休戦に入った。
この間に講和の話し合いがもたれたが、交渉は不成立に終わった。11月13日に休戦期限が切れるとともに、再び両軍は戦闘を開始した。モローは攻撃を再開し、12月3日、ホーエンリンデンの戦いでオーストリア軍に決定的な打撃を与えた。ここに至ってオーストリアは継戦意欲を喪失し、講和に向けて話し合いが開始された。
1801年2月9日、リュネヴィルの和約が締結された。オーストリアは、イタリアとネーデルラントに建国されたフランスの衛星国を承認し、フランスのラインラント領有も認めた。この時点で第二次対仏大同盟は崩壊し、再びイギリスのみが交戦を続けることとなった。そのイギリスも、1802年3月27日、フランスとアミアンの和約を締結して講和した。
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