日本は日英同盟によりイギリスと同盟関係にあった。開戦に際して、イギリス政府からの要請を受け、連合国側として第一次世界大戦に参戦した。大隈重信首相は、イギリスからの派兵要請を受けると、御前会議にもかけない上に、議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後には参戦を決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部の関係悪化を招くことになる。1914年8月15日、ドイツに対し最後通牒と云うべき勧告を行った。参戦に慎重だった為、異例の一週間の期限となったが結局ドイツは無回答の意志を示した為、23日宣戦を布告した。
イタリアは1882年にドイツ・オーストリア・イタリアから成る三国同盟を締結していたが、オーストリアとの領土問題からイギリス・フランスと接近し、1915年に連合国側に立ち参戦した。オスマントルコは数度にわたる露土戦争においてロシアと対立関係にあり、中央同盟国に加わった。
北欧諸国は大戦中一貫して中立を貫いた。1914年12月18日スウェーデン国王グスタフ5世は、デンマーク、ノルウェーの両国王を招いて三国国王会議を開き北欧諸国の中立維持を発表した。これらの国はどちらの陣営に対しても強い利害関係が存在しなかった。スウェーデンにおいては親ドイツの雰囲気を持っていたが、これも伝統的政策に則って中立を宣言した。ただしロシア革命後のフィンランド内戦において、スウェーデン政府はフィンランドへの義勇軍派遣を黙認している。
アメリカ合衆国は当時モンロー主義を掲げ、交戦国との同盟関係は無かった。さらに開戦時にアメリカは中米諸国においてメキシコ革命に介入するなど軍事活動を行っていたため、当初は中立を宣言していた。政府のみならず、国民の間にも孤立主義を奉じる空気が大きかった。大戦中には両陣営の仲介役として大戦終結のための外交も行なっていた。しかし後にルシタニア号事件やドイツの無差別潜水艦作戦再開、ツィンメルマン電報事件を受け、世論ではドイツ非難の声を高まり、1917年に連合国側に立って参戦した。フランスやイギリスが敗北した場合に両国への多額の貸付金が回収できなくなることを恐れたとの見方もある。
詳細は西部戦線 (第一次世界大戦)を参照1914年8月4日時点の両陣営 連合国(緑)、連合国の植民地と占領地(薄緑)、同盟国(橙)、同盟国の植民地と占領地(肌色)前進するドイツ軍 1914年8月7日
1914年の開戦時、普仏戦争以来ヨーロッパで40年振りの戦争は、騎士道精神に彩られたロマンチックな姿で描写され、両陣営の国民はその発表を大熱狂で歓迎した。この戦争は、少数の戦闘からなる短いものとなるだろう。そして敵国の首都へ入城して終わり、「クリスマスまでには」凱旋して普段の生活に戻れるだろう。多くの若者たちが、戦争の興奮によって想像力を掻きたてられ、国家宣伝と愛国心の熱情に押されて軍隊へと志願した。
しかし一部の指導者たちはこの戦争に深い悲観と憂慮を抱いていた。イギリスのホレイショ・キッチナーは、戦争は長期化して膨大な犠牲を生じさせると予測し、大規模な新兵募集によるキッチナー陸軍を構想した。国際金融市場は7月下旬から8月初旬に深刻な危機に陥った。
中央同盟国では緒戦の戦略に関する齟齬が発生していた。ドイツはオーストリアのセルビア進攻を支援すると確約していたが、ロシアとフランスの参戦が明らかになると、シュリーフェン・プランに基づく対フランス戦を優先させ、オーストリア軍にはロシア軍に対する防衛を求めた。対セルビア戦を準備していたオーストリア軍は、既に動員が完了していた軍を北方のロシア軍と対峙させるために再移動させざるを得なくなり、あちこちで鉄道輸送の混乱が生じた。
オーストリア軍とセルビア軍との本格的な戦闘は、8月12日にセルビア西部ドリナ川沿いで始まった。オーストリア軍は強行渡河に出たが、セルビア軍は防御陣地を構築して激しい戦闘となり、8月19日、オーストリア軍はドリナ川を渡って退却した。これは戦争における連合軍の初めての勝利だった。オーストリア軍はセルビアを攻略するという主目標を達成できず、ロシア戦線との二正面作戦を強いられることになる。
ドイツ政府はシュリーフェン・プランに基づき、8月2日、ベルギー政府に対して無条件通過権を要求した。ベルギーはこれを拒絶、ドイツ軍は8月4日午前8時、リエージュ東方で国境を突破しベルギーとルクセンブルクへ進攻した。ベルギー軍はリエージュの戦い(8月5日 - 8月16日)で防戦を試みたものの、質・量ともに勝るドイツ軍に圧倒された。だがベルギー軍は鉄道トンネルや橋梁を爆破してドイツ軍の進撃を遅らせ、またドイツによる中立侵犯はイギリスに連合国側に立った参戦を決断させた。
イギリスは陸軍大臣にキッチナーを任命し、フランスへ英国遠征軍を派遣した。フランドルにおいてドイツ軍と英仏軍との最初の戦闘が行われ、このフロンティアの戦い(8月14日 - 8月24日)でドイツ軍は英仏軍を圧倒した。しかし英仏軍の抵抗による遅延と、予想外に迅速だったロシア軍の動員により、シュリーフェン・プランは現実との間に差を生じつつあった。ロシア軍はまず動員の完了した第1軍と第2軍をもって東プロイセンを攻撃した。ドイツ軍は一部を割いてパウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリヒ・ルーデンドルフの指揮下に第8軍を編成し、タンネンベルクの戦い(8月17日 - 9月2日)においてロシア軍を各個撃破した。だがこの戦闘は、ドイツ軍に対しても、西部戦線における戦力不足という影響を与える。
9月、ドイツ軍はパリ東方のマルヌ川まで迫ったものの、マルヌ会戦(9月5日 - 9月10日)において、フランス軍はタクシーを使った史上空前のピストン輸送を実施し、防衛線を構築してドイツ軍の侵攻を阻止した。ドイツ軍は後退を余儀なくされ、シュリーフェン・プランは頓挫した。
詳細はアフリカ戦線 (第一次世界大戦)、アジア太平洋戦線 (第一次世界大戦)をそれぞれ参照