光明皇太后の後見を無くした仲麻呂は天平宝字8年(764年)9月に挙兵(藤原仲麻呂の乱)するが敗れ、同年10月淳仁天皇を追放して孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となった。即位後、道鏡を太政大臣禅師とするなど重用した。また下級官人である吉備真備を右大臣に用いて、左大臣の藤原永手とのバランスをとった。天平神護元年(765年)には墾田永年私財法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じた。
神護景雲3年(769年)、太宰府の主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡の託宣を報じた。これを確かめるべく、和気清麻呂が勅使として宇佐八幡に送られたが、この託宣は虚偽であると復命した。これに怒った道鏡は清麻呂を因幡員外介として左遷し、さらに称徳天皇は清麻呂を除名し大隅国へ配流した(宇佐八幡宮神託事件)。その後、道鏡の故郷である河内国に由義宮を造営した。
しかし翌年、称徳天皇は河内の由義宮に行幸し同地を西京とする旨を宣したのち、病臥、100日余で崩御した。このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。病気回復を願う祈祷(現代では迷信だが、当時は立派な医療行為のひとつ)が行われたとの史料がないことから、医療行為を施されず見殺しにされたとの主張(さらに踏み込んで暗殺説)もある。
称徳天皇は皇位継承者であったことから生涯独身を余儀なくされ、子をなすこともなかった。また、それまでの権力闘争の結果、兄弟もなく、父聖武天皇にも兄弟がなく、他に適当な天武天皇の子孫たる親王、王が無かったため、藤原永手や藤原百川の推挙によって天智天皇系の白壁王(光仁天皇)が即位した。また、道鏡は失脚して下野国に配流され、彼女が禁じた墾田私有は再開された。
系譜
祖父:文武天皇(母方の祖父は藤原不比等)
祖母:藤原宮子
父:聖武天皇
母:光明皇后
弟:基王
異母兄弟姉妹:井上内親王・不破内親王・安積親王
(38)天智天皇
(中大兄皇子) (41)持統天皇
(43)元明天皇
(39)弘文天皇
(大友皇子) 葛野王 池辺王 (淡海)三船
施基皇子
(田原天皇) (49)光仁天皇 (50)桓武天皇
(40)天武天皇
(大海人皇子) 草壁皇子 (44)元正天皇 早良親王
(崇道天皇)
(42)文武天皇 (45)聖武天皇 (46)孝謙天皇
(48)称徳天皇
吉備内親王
長親王 智努王
(文屋浄三) 大原王 文室綿麻呂
舎人親王
(崇道尽敬皇帝) 御原王 小倉王 (清原)夏野
(47)淳仁天皇
大津皇子 ◇ ◇ 貞代王 (清原)有雄
高市皇子 長屋王 桑田王 磯部王 石見王 (高階)峰緒
〔高階氏へ〕
奈良県奈良市山陵町にある高野陵(たかののみささぎ)と比定されているが、孝謙天皇陵と比定されている佐紀高塚山古墳は佐紀盾列古墳群を構成する前方後円墳であり、その比定は疑問視されている。
漫画
里中満智子『女帝の手記?孝謙・称徳天皇物語』
清原なつの『光の回廊』
先代:
淳仁天皇天皇
第48代: 764-770次代:
光仁天皇
歴代天皇一覧
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