科挙は隋の文帝によって始まる。それまでの九品官人法は貴族勢力の子弟を再び官僚として登用するための制度と化しており、有能な人材を登用するものと到底言いがたい存在であった。文帝は優秀な人材を集め、自らの権力を確立するため、実力によって官僚を登用するために科挙が始められた。隋より前の六朝時代には、世襲の貴族が、家柄によって官僚になるという貴族政治が行われていた。隋代の科挙は、秀才・明経・明法・明算・明書・進士の六科からなり、郷試・会試の二段階であった。
科挙はその後、唐にも受け継がれたが、この時代までは制度の本当の威力は発揮されなかった。何故なら、旧来の貴族層が、科挙の合格者たちを嫌い、なお権力を保ち続けたからである。唐においては、科挙は郷試・会試の二段階であった。会試(貢挙)には、四科が課せられた。それは、「身」「言」「書」「判」と呼ばれる科目である。「身」とは、統治者としての威厳をもった風貌をいう。「言」とは、方言の影響のない言葉を使えるか、また官僚としての権威をもった下命を属僚に行えるかという点である。「書」は、能書家かどうか、文字が美しく書けるか、という点であり、「判」は確実無謬な判決を行えるか、法律・制度を正しく理解しているか、ということを問うた。そこには、貴族政治の名残りが色濃く見られる。
しかし、唐が滅んだ後の五代十国時代の戦乱の中で、旧来の貴族層は没落し、権力を握ることはなくなった。更に、北宋代に入ると宋の創始者趙匡胤の文治政策に則り、科挙に合格しなければ権力の有る地位に就くことは不可能になった。これ以降、官僚はほぼ全て科挙合格者で占められるようになった。また、趙匡胤は科挙の最終試験を皇帝自らが行うものと決めた。この試験は殿試と呼ばれる。これによって、科挙に合格した官僚は、皇帝自らが登用したものという感が強まり、皇帝の独裁体制を強めるものとなった。
宋代当初は、受験科目が進士科と諸科に大きく分けられていた。しかし、王安石の行った科挙制度の改革によって、諸科はほぼ廃止されて科目が進士一科に絞られた。本来、進士科は詩文などの才能を問う要素が強かったが、この時より経書・歴史・政治などに関する論述が中心となった。また、初めて『孟子』が受験必修の書として定められた。
この頃、答案が誰の手により作成されたものかを事前に試験官に分からないように、答案の氏名を糊付して漏洩を防止する糊名法や、記述された答案の筆跡による人物判別を防止するため答案を書き改めた謄録法も出現した。呉自牧著『夢粱録』には、南宋における科挙の実施に関する記事が示されている。
王安石の後、司馬光率いる旧法党が政権を握ると更なる科挙制度の改革が行われた。それは、進士科の中に経義を選択するもの(経義進士)とその代わりに詩賦を選択するもの(詩賦進士)が設けられた。
※ 殿試の魁選に一甲及第した進士を三魁と呼んだ。状元、榜眼、探花の総称である。
元では一時、科挙が廃止された。これによって、士大夫の立身出世への道は絶たれた。また、読書人階級は乞食の1つ上の階級という地位に置かれた。しかし、元末に科挙は復活した。
明代に入り、科挙は複雑化した。科挙の受験資格が基本的に国立学校の学生に限られたために、科挙を受ける前に、童試(どうし)と呼ばれる国立学校の学生になるための試験を受ける必要があった。
清代に入っても、この制度は続き、更に試験の回数が増えて複雑化した。このため、そのシステムの複雑化から制度疲労を起こしており、優秀な官僚を登用するという科挙の目的を果たせなくなってきた。このような弊害を抱えながらも、依然として科挙は続けられた。
だが、西洋列強や日本が中国を蚕食すると、近代化が叫ばれるようになっていった。そして遂に、清朝末期の1905年に廃止された。
科挙が、中国社会においては一般常識そのものとされた儒学や文学に関して試験を行っている以上、その合格者は中国社会における常識を備えた人であると見なされており、その試験の正当性を疑う声は少数であった。逆に元初期に科挙が行われなかった最大の理由は、中国以外の地域に広大な領域を持っていた元朝にとって見れば、中国文化は征服先の一文化圏に過ぎないという相対的な見方をしていたからに他ならない。
清朝末期に中国が必要としていた西洋の技術・制度は、いずれも中国社会にはそれまで存在しなかったものばかりであり、そこでの常識だけでは決して理解できるものではなかった。中国が植民地化を避けるために近代化を欲するならば、用に立たない古典の暗記と解釋に偏る科挙は廃止されねばならなかったのである。
太平天国も、科挙を行った。特筆すべきは、女子に対して科挙を行ったことである。1851年に行われたこの科挙は「惟女子与小人為難養也」をテーマとした論文を書かせるもので、200人余りが受験した。そして傅善祥が状元となった。
童試とは、科挙の受験資格である国立学校の学生になるための試験である。童試を受ける者は、その年齢にかかわりなく、一律に童生(どうせい)、あるいは儒童(じゅどう)と呼ばれた。なお、童試は本来科挙ではないが、科挙の受験資格を得る試験として、これをも含めて科挙を論じるのが一般的である。
童試は3年に一回、旧暦2月に行われ、順に県試・府試・院試の3つの試験を受ける。県試は、各県の地方官によって行われる。県試に合格したものは、その県を管轄している府の府試を受ける。府試は、各府の地方官によって行われる。さらに府試に合格したものは、皇帝によって中央から派遣された学政による院試を受ける。この院試に受かったものは、晴れて秀才と呼ばれ、国立学校への入学資格を得る。
童試は唐代のころから童子科として存在しており、唐代は10歳以下、宋代は15歳以下が対象となっていたようであり、及第者には解試免除や授位などがなされた。ここで特筆すべきは、南宋の時代に女童子の求試が2度もあったことであり及第者も誕生している。
殿試とは、進士に登第(合格)した者が、皇帝臨席の下に受ける試験をいう。既に進士の地位はあるが、この試験により順位を決め、後々の待遇が決まってくる。上位より3名はそれぞれ状元、榜眼、探花と呼ばれ、官僚としての将来が約束された。古来より「進士は月日をも動かす」と言われ巨大な官僚機構の頂点に立つ進士は一族も含めて多大な栄華を極めたのである。
※ 郷試、会試、殿試の全ての試験において首席だった者を三元と呼ぶ。これは、各試験での首席合格者を郷試で解元、会試で会元、殿試で状元と呼んだことに由来している。麻雀の役満である大三元は、ここに由来している。
武科挙とは、科挙の武官登用試験のことを言う。一般的に言われている文官登用試験は文科挙といわれる。武挙、清代には武経と呼ばれた。文科挙と同様に武県試・武府試・武院試・武郷試・武殿試(皇帝の前でおこなわれ学科のみ)の順番で行われ、最終的に合格した者を武進士と呼んだ。試験の内容は馬騎、歩射、地球(武郷試から)と筆記試験(学科試験)が課された。
馬騎 - 乗馬した状態から3本の矢を射る。