科挙という語は「(試験)科目による選挙」を意味する。選挙とは郷挙里選や九品官人法などもそう呼ばれたように、伝統的に官僚へ登用する為の手続きをそう呼んでいる。又、「科目」とは現代の国語や数学といった教科ではなく、後述する「進士科」や「明経科」などと呼ばれる受験に必要とされる学識の課程である。北宋朝では、これらの科目は進士科一本に絞られたが、以後も科挙と呼ばれる。
隋朝の楊堅(文帝)により初めて施行されるが、隋から唐の時代では、貴族として生まれた者たちが高い地位を独占しており、その効力は発揮できていなかった。これが北宋の時代になると、科挙によって登場した官僚たちが新しい支配階級“士大夫”を形成し、政治・社会・文化の大きな変化をもたらしたが、科挙はその最も大きな要因だと言われている。士大夫たちは、科挙によって官僚になる事で地位・名声・権力を得て、それを元にして大きな富を得ていた。
学識のみを合否の基準とする科挙ではあるが、科挙に及第する為には:(1)幼い頃より科挙の受験科目の填め込みに専念できる環境、即ち生業を営まなくても被雇傭者にならなくても生活可能な環境と、(2)填め込み学習の為に高名な学者への入門費、当時はまだ高価であった書物の多数の購入費など莫大な費用;これら2点が必要とされた。その為、科挙及第者は大半が富裕階級に限られ、支配階級たる士大夫の再生産の機構としての意味合いも強く持っていた。但し、旧来の貴族が長い家では六朝時代を通じてといった長い期間存在していたのに比べ、士大夫は長い家でも4?5代と短く、科挙に及第できなければ昨日の権門も明日には没落する状態になっていた事は、特筆すべきである。
従って、科挙の競争率は熾烈を極め、時代によって異なるが、約3000倍とも言われている。最終合格者の平均年齢も、時代によって異なるが、約36歳と言われている。及第者数に対して受験者数が増大し、カンニングをする為に、全体にびっしりと詩文の書かれた下着など、科挙の苛酷さを伝える逸話も多い。このような試験偏重主義による弊害もまた大きかった。「ただ読書のみが尊く、それ以外は全て卑しい」(万般皆下品、惟有読書高)という風潮が、科挙が廃止された後の20世紀前半になっても残っていた。科挙官僚は、詩作や作文の知識を持つ事を最大の条件として、経済や治山治水など実務や国民生活には無能・無関心である事を自慢する始末であった。こういった風潮による政府の無能力化も、欧米列強の圧力が増すにつれて深刻な問題となって来た。又、太学や書院などの学校制度の発達を阻碍した面を持っている事は否めない。これに対しては、王安石などにより改革が試みられた例もあったが、頓挫した。それ以後もこの風潮は収まらず、欧米列強がアジアへ侵略すると、科挙官僚は“マンダリン”と呼ばれる時代遅れの存在となり、1905年に科挙は廃止された。
なお、科挙には武官を登用するものもあり、“武科挙”(武挙)と呼ばれた。しかし伝統的に中国では軍人・兵士は下に見られた存在であり、一般に科挙というと、文官を登用するもののみを指す。
科挙は隋の文帝によって始まる。それまでの九品官人法は貴族勢力の子弟を再び官僚として登用するための制度と化しており、有能な人材を登用するものと到底言いがたい存在であった。文帝は優秀な人材を集め、自らの権力を確立するため、実力によって官僚を登用するために科挙が始められた。隋より前の六朝時代には、世襲の貴族が、家柄によって官僚になるという貴族政治が行われていた。隋代の科挙は、秀才・明経・明法・明算・明書・進士の六科からなり、郷試・会試の二段階であった。
科挙はその後、唐にも受け継がれたが、この時代までは制度の本当の威力は発揮されなかった。何故なら、旧来の貴族層が、科挙の合格者たちを嫌い、なお権力を保ち続けたからである。唐においては、科挙は郷試・会試の二段階であった。会試(貢挙)には、四科が課せられた。それは、「身」「言」「書」「判」と呼ばれる科目である。「身」とは、統治者としての威厳をもった風貌をいう。「言」とは、方言の影響のない言葉を使えるか、また官僚としての権威をもった下命を属僚に行えるかという点である。「書」は、能書家かどうか、文字が美しく書けるか、という点であり、「判」は確実無謬な判決を行えるか、法律・制度を正しく理解しているか、ということを問うた。そこには、貴族政治の名残りが色濃く見られる。
しかし、唐が滅んだ後の五代十国時代の戦乱の中で、旧来の貴族層は没落し、権力を握ることはなくなった。更に、北宋代に入ると宋の創始者趙匡胤の文治政策に則り、科挙に合格しなければ権力の有る地位に就くことは不可能になった。これ以降、官僚はほぼ全て科挙合格者で占められるようになった。また、趙匡胤は科挙の最終試験を皇帝自らが行うものと決めた。この試験は殿試と呼ばれる。これによって、科挙に合格した官僚は、皇帝自らが登用したものという感が強まり、皇帝の独裁体制を強めるものとなった。
宋代当初は、受験科目が進士科と諸科に大きく分けられていた。しかし、王安石の行った科挙制度の改革によって、諸科はほぼ廃止されて科目が進士一科に絞られた。本来、進士科は詩文などの才能を問う要素が強かったが、この時より経書・歴史・政治などに関する論述が中心となった。また、初めて『孟子』が受験必修の書として定められた。
この頃、答案が誰の手により作成されたものかを事前に試験官に分からないように、答案の氏名を糊付して漏洩を防止する糊名法や、記述された答案の筆跡による人物判別を防止するため答案を書き改めた謄録法も出現した。呉自牧著『夢粱録』には、南宋における科挙の実施に関する記事が示されている。
王安石の後、司馬光率いる旧法党が政権を握ると更なる科挙制度の改革が行われた。それは、進士科の中に経義を選択するもの(経義進士)とその代わりに詩賦を選択するもの(詩賦進士)が設けられた。
※ 殿試の魁選に一甲及第した進士を三魁と呼んだ。状元、榜眼、探花の総称である。
元では一時、科挙が廃止された。これによって、士大夫の立身出世への道は絶たれた。また、読書人階級は乞食の1つ上の階級という地位に置かれた。しかし、元末に科挙は復活した。
明代に入り、科挙は複雑化した。科挙の受験資格が基本的に国立学校の学生に限られたために、科挙を受ける前に、童試(どうし)と呼ばれる国立学校の学生になるための試験を受ける必要があった。
清代に入っても、この制度は続き、更に試験の回数が増えて複雑化した。このため、そのシステムの複雑化から制度疲労を起こしており、優秀な官僚を登用するという科挙の目的を果たせなくなってきた。このような弊害を抱えながらも、依然として科挙は続けられた。
だが、西洋列強や日本が中国を蚕食すると、近代化が叫ばれるようになっていった。そして遂に、清朝末期の1905年に廃止された。