福田康夫
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経歴


生い立ち幼少時の福田康夫父・福田赳夫

1936年7月16日東京府東京市世田谷区大蔵官僚福田赳夫、三枝の長男として生まれる[2]。戦時中、実家の旧群馬町に疎開していた[3]。群馬県群馬町金古小学校、大宮市南小学校、東京高等師範附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)、渋谷区猿楽小学校などに学ぶ。1949年3月、東京第一師範学校男子部附属小学校(現在の東京学芸大学附属世田谷小学校)卒業。小学生時代の福田は野球の好きなスポーツ少年で、駐箚[4]中国大使を務めた谷野作太郎とはこのときから交流があった[5]

1952年3月、麻布中学校1955年3月、麻布高等学校卒業[6]。中高時代は文学や音楽に親しみ、成績は優秀であった[3][7] 。同級生には声優柴田秀勝や、物流大手のサンリツ会長の三浦正英などがいる[3]

1959年3月、早稲田大学第一政治経済学部経済学科を卒業。大阪に本社を置く丸善石油(現:コスモ石油)に入社し、1962年3月から2年間、米国ロサンゼルス支店に赴任[6]。帰国後に石油製品の輸入課長も務め、石油の価格・量の動向の予測・判断、産地国からの石油調達の輸入業務などを行っていた[8][9][10]。このときオイルショックを経験している[11]

1966年に元衆議院議長桜内義雄嶺貴代子に、「政治家の女房にはしない」と誓い結婚[5]


政界へ

「政治家になるつもりはない」と語っていた福田だが、父の後継者とされた次弟(横手征夫)が病気となり、母三枝が後継者に推したこともあって、政治家を志す[5][12]1976年11月に会社を退社し、衆議院議員秘書となり[6]1977年12月から1年間、父・赳夫の内閣総理大臣秘書官を務める。事務担当秘書官には、保田博棚橋祐治小和田恆らがいた。秘書官として、日中平和友好条約へ向けた中国、アメリカとの舞台裏交渉に関与した。1990年2月に第39回衆議院議員選挙で、群馬県第4区から出馬して当選。

初当選後の取材で「二世批判はあるでしょうが、政治家の息子とはいえ私は50歳代。独立した一人の人間として見ていただきたい」と語っていたが、「おじいちゃんのあとを継いだおじいちゃんだから」などと漏らしてもいた[13]。以後6回当選する。50歳以上初当選組のクローニンの会に所属している。

議員としては、外務政務次官、衆議院外務委員長、党外交部会長を務めるなど、初入閣までは主として外交関係のポストで地歩を築いていった。


内閣官房長官

2000年10月第2次森内閣で、女性スキャンダルが問題視され辞任した中川秀直に代わって内閣官房長官に就任する。後任人事として小泉純一郎尾身幸次があげられていたが、当時森派会長だった小泉が「本人の能力、人間性、人格などすべてを勘案し、今の時点で一番適任」[14]、と考え推薦した。閣僚経験が皆無であったにも関わらず、森内閣で官房長官に起用されたことに疑問の声も上がったが、父親の首相時代に首相秘書官を務めていた経験が生き、無難に調整役をつとめた。森内閣においては首相の失言やKSD事件、外交機密費流用問題などの弁明に追われることも多く、「弁明長官」と呼ばれた。

その後小泉内閣では2度にわたる内閣改造でも留任。 在任期間が延びるにつれ、首相に直言できる女房役としての存在感は次第に増していくことになった。官房長官の記者会見で垣間見える冷笑的態度から、ネットの匿名掲示板では「フフン」というあだ名がついた。

実務能力には定評があり、官邸主導の政治体制が確立していく中で、政府各省や与党との調整に力を発揮した上、本来の得意分野である外交における存在感も徐々に増していった。小泉内閣では、外務大臣田中眞紀子と外務省官僚との軋轢を巡る騒動の中で外務省が機能不全に陥った時は、大臣の頭越しに自ら外務省事務方への指示を行った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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