焼結して多結晶となる粘土質物、除粘剤となり可塑性を向上させ、かつフラックス(融剤)として融点を下げる石英(SiO2)、ガラス相を形成し強度を向上させ、石英と同種の効果も示す長石の3種類が主原料である。粘土質物はSiO2(45〜70%)、Al2O3(10〜38%)とFe2O3(1〜25%)、長石は正長石(K2O ?Al2O3 ?6SiO2)とソーダ長石(Na2O?Al2O3 ?6SiO2)から構成される。粘土質物にはカオリンが使用され、この他、軟質磁器には石灰、ボーンチャイナには骨灰(リン酸カルシウム)が添加される。硬質磁器はカオリンが70%以上であり、軟質磁器は長石と石灰が約60%を占め、ボーンチャイナは骨灰が時に半分以上となるなど、磁器の種類によって組成は大きく異なる。
原料処理では、まず透水性向上のために長石・石英を細かく粉砕する。続いて不純物を水篩などで除去した後に原料を全て混合し、荒練りと菊練りと呼ばれる作業で練り上げる。これにより土中の水分を均一にして乾燥による歪みを防止するとともに、空気を抜くことで成形性を向上させる効果がある。練った土はしばらく放置し、水を細部まで浸透させると同時に、繁殖したバクテリアの排泄物により可塑性を向上させる。
練られた土は、まずロクロやヘラで大まかな形が作られる。これを乾燥させて水分が10%程度になったら仕上げ加工を施す。複雑な形状の製品(人形など)は泥しょう鋳込法等により成形する。
続く焼成は、通常2〜3段階に分けて行なわれる。最初に700℃前後での素焼きにより、水分をとばす。この時まず300℃付近で素地の水分が蒸発するが、十分に乾燥させていないと蒸気圧によって形状が崩壊する。さらに450〜600℃でカオリンなどの結晶中の結晶水が放出されて大幅に素地が収縮する。素焼きを終えたこの段階で釉薬をかけ(施釉)、続いて1300℃程度で1次焼成を行なう。これによって釉薬はガラス化し、光沢や色が得られるとともにガラス層が粒界亀裂の進展を抑えるために強度が向上する。さらにこの後、絵付を施してから800℃前後の2次焼成を行なう場合もある。 磁器は焼成中に高温で融解しつつ、ムライトと呼ばれる針状鉱物結晶を生成するため、成分の多くが融解しても形状を維持し続け、ガラス質の器質となる。
顔料によって磁器に模様を描く作業は絵付と呼ばれる。絵付には施釉前に行なう下絵付と施釉後に行なう上絵付がある。下絵付は2次焼成の必要がないため低コストだが、釉薬と反応しない安定な顔料しか使えない。このため金属塩化物や硝酸化合物が主に使われ、緑、青、黄などを発色する。コバルトブルーの染付は下絵付によって描かれる。これに対し、上絵付は2次焼成の手間がかかるものの、熱処理温度が低いため使用できる色が多く、特に赤色顔料や金彩を使用できるのが特徴となっている。
磁器が発明されたのは11世紀の北宋と言われ、景徳鎮が産地として特に有名である。また俗説では、早くから高麗に焼成技術が伝わり、青磁が作られ、その技法が日本にもたらされたかのようにいわれている。しかし、これには誤解がある。中国語で言うところの「磁(器)」とは磁州で発見された白い土を用いたものの総称で「青磁」「白磁」を含んでいるが、これは紀元前後から発展してきたまったく別の系統に属しており、中世景徳鎮などで主に染付けのためにつくられた完全な磁器とは違い、上掛けした白土と灰釉、つまり釉薬によるものである。朝鮮に伝わったものは越州龍泉窯などでつくられた前者であって、日本で言うところの焼成磁器については景徳鎮に学んだとみるのが正しいようである。
伝説では豊臣秀吉の唐入りによって、朝鮮半島から連れてこられた陶工が、肥前で焼いたことから製作が始まるとされる。この日本式の磁器は、朝鮮陶工・李参平(金ヶ江三兵衛)が有田近郊の泉山で発見したといわれる、可塑性と磁器化する能力を持つ陶石の粉末を原料とすることに特徴がある。彼らは機密保持のため束縛をうけたが、またそれと共に士分を与えられ厚遇された (現地では儒教的社会観から商工業者の身分は低かった)ので、家族や縁者も呼び寄せ、以後日本の磁器生産が盛んになったという。ただし、朝鮮半島の陶質青磁などに最も近いとされる古唐津は、古窯の調査から16世紀前半にさかのぼり、李がつくったといわれる初期伊万里(古伊万里の前段階)は、まだ李朝白磁の上手物の域を脱していない。なお、有田では李参平らによって当初は染付磁器が作製されていたが、17世紀後半には景徳鎮の影響を受けた金襴手などの色絵磁器が主流となっていった。
景徳鎮はなぜ磁器になったのだろうか。もともと景徳鎮でも青磁を作っていたが、もちいていた近傍の高嶺(カオリン)という山の白土は、超高温で焼かなければ固まらない難物だった。そこで出来た青白磁はすでに磁質(ガラス)化していたが、「影青(インチン)」といって青みがうすく、氷のような硬く冷たい色をしていた。明のひとびとは、これは地の白土がガラスのように透き通るので純白にならないためだと考え、ほかの陶石をまぜるなどして改良したらしい。こうしてできた白地が圧倒的に美しかったためにいつしか唯一無二の絵付けの生地として中国を席巻していった。西洋の磁器も、はじめはこの景徳鎮や有田焼を粉砕・溶解するなど長年にわたる詳細な科学調査を繰り返してようやく確立された。
積み出し港の名から伊万里焼と呼ばれた肥前磁器は、江戸時代後期まで隆盛を極め、また中国風の赤絵などのデザインだけでなく、日本独自の酒井田柿右衛門による濁手、金襴手などが生まれ、明末清初の混乱で磁器生産が滞った中国に代わってヨーロッパにも輸出され、高い評価を得た。また鍋島藩では藩窯として生産を行ない、美しく緻密な作品が作られた。江戸時代後半には磁器焼成は九谷、砥部など各地に広まり、明治頃には瀬戸で大量に生産されるようになり、庶民にも磁器は広まっていった。
明治以降はゴットフリード・ワグネルなどからヨーロッパの科学技術を取り入れて、生産効率が飛躍的に向上した。具体的には、
鉄道・汽船など輸送手段の発展により原料となる陶土の選択肢が増加。
機械化や泥しょう鋳込法導入による成形の高速化。
科学的な精製による顔料調合の効率化。
ガスや電気、石炭を燃料とし、より正確な焼成の温度管理が実現。
などの要因が挙げられる。そしてジャポニズム趣味の流行や国内の安価な労働力を背景として、職人を吸収した会社組織による洋食器の輸出が盛んに行なわれた。