1884年、日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男として生まれた。父の湛誓は、東京大教院(現・立正大学)の助教補(助手)を務めていた。後に総本山身延山久遠寺第81世法主に選ばれた人物である。母・きんは江戸城内の畳表一式を請け負う大きな畳問屋石橋家の娘。石橋家は日蓮宗承教寺の有力な檀家で同寺院内に所在した東京大教院に在学中の湛誓と親しかった。故あって、母方の姓である石橋を名乗った[1]。
1885年、湛誓が郷里山梨県南巨摩郡増穂村(現・同郡増穂町)の昌福寺住職へ転じたため、きんと共に甲府市稲門へと移住した。
1894年、湛誓が静岡市の本覚寺住職に転じることになり山梨県中巨摩郡鏡中条村(旧・同郡若草町、現・南アルプス市)の長遠寺住職である望月日顕(後に身延山久遠寺83世法主)の下で育てられた。以来実質的な親子の関係は絶たれ、幾度となく手紙を出したが父母からの返事はもらえなかったという。湛山自身は「もし望月師に預けられず父の下に育てられたら、あるいはその余に厳格なるに耐えずしくじっていたかもしれぬ。…望月上人の薫陶を受けえたことは一生の幸福であった。そうしてくれた父にも深く感謝しなければならない」と「湛山回想」に記している[2]。
1902年3月、山梨県立第一中学校卒業。4月、第一高等学校受験のため上京。しかし7月の試験は不合格となった。翌年、正則英語学校で学び再度受験したがまたもや失敗し早稲田大学高等予科の編入試験を受け合格、9月に入学した。こうして東京での下宿生活が始まった[3]。
早大を卒業すると東京毎日新聞社(旧横浜毎日新聞、現在の毎日新聞社とは無関係)、兵役を経て東洋経済新報社に入社し、主幹・社長を歴任した。
部下の高橋亀吉と共に経済論壇の一翼を担い、金解禁に当たっては新平価での金本位制復帰を主張し、旧平価での復帰や財界整理を主張した勝田貞次や堀江帰一たちや大蔵大臣として金解禁を旧平価で行った井上準之助と論争した。又、加工貿易立国論を唱えて満州の放棄を主張するなど、リベラルな言論人として知られた。
日中戦争が勃発してから敗戦に至るまで『東洋経済新報』誌上にて、長期戦化を戒める論陣を張った。署名記事を書くことが困難だった多くのリベラリストたち(清沢洌など)にも同誌は匿名での論説の場を提供した。石橋や匿名執筆者の論調は常に冷静な分析に基づいており、かつ婉曲・隠微に読者を啓蒙するといった物であったため、同誌は政府・内務省から常に廃刊の標的にされ、インクや紙の配給を大きく制限されながらも『改造』や『中央公論』のように政府によって廃刊される事は免れた。
敗戦直後の1945年8月25日には、論説「更正日本の進路?前途は実に洋々たり」で科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする先見的な見解を述べた。
戦後すぐに日本社会党からも総選挙出馬を誘われたが断り、1946年に自由党から総選挙に出馬した。落選したものの、第1次吉田茂内閣の大蔵大臣として入閣を果たす。
大蔵大臣在任時にはデフレーションを制えるためのインフレーションを進め、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進した。
しかし戦後補償打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題などでGHQと対立。進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品等の経費も含んでいて日本の国家予算の3分の1を占めていた。このあまりの巨額の負担を下げる様、石橋は要求した。アメリカは諸外国の評判を気にしたことと以後の統治をスムーズに進行させることを考慮し、日本の負担額を2割削減することにした。戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は国民から心臓大臣と呼ばれるもアメリカに嫌われ、1947年に第23回衆議院議員総選挙で静岡2区(中選挙区)から当選したものの、GHQの公職追放令により公職追放された。1951年に追放が解除された後は、吉田の政敵であった自由党・鳩山一郎派の幹部として打倒吉田内閣に動いた。またその後1952年12月から立正大学の学長に就任した。
1954年の第1次鳩山内閣で通商産業大臣に就任した。石橋は中華人民共和国、ソビエト社会主義共和国連邦との国交回復などを主張し国民の期待も高かったが、アメリカの猛反発を受ける。アメリカのダレス国務長官は「中共(中華人民共和国)、ソ連との通商関係促進はアメリカ政府の対日援助計画に支障をきたす」と通告してきた。このアメリカの強硬姿勢に動揺した鳩山一郎首相に対し、石橋は「アメリカの意向は無視しましょう」と言った。1955年11月、日中輸出入組合の結成を支援し中国との貿易が軌道に乗るようになる。