百済
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歴史

百済は4世紀中頃に国際舞台に登場する(『晋書』慕容部載記)。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。『三国史記』では紀元前18年の建国とするが、韓国北朝鮮以外では史実として採用されていない。。 通説では『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国が前身であろうとされているが詳細は不明である。


民族と言語

百済の言語についてはじめて記した史書は『梁書』である。同書は百済の言語はほぼ高句麗と同じと記し、『魏書』もそれを踏襲したが、『周書』は、百済王の姓は夫余氏であり、自ら「於羅瑕」と称していたこと、一方、民衆は「?吉支」と呼んでおり、どちらも王の意味であることを特記している。李基文は、この呼称の違いは王族をはじめとする支配層と民衆を中心とする被支配層とで言語が異なる二重言語国家であったことを示すものであり、この二重言語状態は高句麗と同じ夫余系言語を話す人々が韓系の言語を話す馬韓の住民を征服したことによって生じたと推定した。この推定に基づけば、『周書』以前の史書が百済の言語を高句麗とほぼ同じと記したのは、支配層の言語である夫余系百済語の方に注目したためであるということになる。


建国神話

中国の史料の伝える伝説
『後漢書』『宋書』『梁書』『南史』『隋書』などが採録した百済建国伝説をまとめると、百済は始めは高句麗と「ともに」遼東の東千里の地にあったというが、これは玄菟郡の設置から廃止までの経緯により先住民が高句麗と夫餘の二系統にわかれたことをいうのであろう。さて、その夫餘には、尉仇台という夫餘の王がいた。後漢の太守として183年に遼東に割拠した群雄公孫度(??205年。帯方郡を設置した公孫康の父)は、娘(一説に妹)をこの夫餘王尉仇台に嫁がせ両国は婚姻関係を結んだ。これによって夫餘東夷の強国となったと書かれている(『隋書』百済伝)。この尉仇台(仇台ともいう)が、かつての帯方郡だった地(原文「帯方故地」。実際には「のちの帯方郡にあたる地」であり、帯方故地というのは誤解)に国を建てた(馬韓の伯済国か? ちなみに尉仇台と仇台は同一人物説、別人説、祖父と孫説などがあるが『後漢書』は同一人物とみなしている。詳細は該当項目参照。「帯方故地」という原文を尊重すれば314年以後の建国となり、尉仇台と仇台は世代の異なる別人となるが、帯方郡が健在だった3世紀にすでに「伯済国」があったことが魏志に明らかであり、もし「伯済国」が百済の前身だったとするならば、帯方郡滅亡後に建国したということは考えにくい)また時(317?420年)に高句麗が遼東を占領した頃(404年)に、百済もまた遼西・晋平の2郡を平定した(あるいは百済郡を置いた、またはその郡治は「晋平郡晋平県」ともいう)という。

朝鮮の史料の伝える伝説
三国史記』によると高句麗の朱蒙は北夫餘から逃げ出す時、妻は妊娠していた。しかし避難する時、妻の礼氏と一緒に行けなかったので妻に刀を二等分に分けて男の子を生んだらこの子が成長して大人になる時、刀の欠片を持って一緒に来いと言った。北夫餘から逃げ出して高句麗を建国し新しい王妃の召西奴から2人の息子が生まれ兄は沸流、弟は後で百済を建国する温祚だった。この王子たちが少年になる頃、北夫餘から異母兄の瑠璃(高句麗の2代瑠璃明王である。)が刀の欠片を持って母の礼氏と高句麗に来たので沸流と温祚は母の召西奴と高句麗を去った。兄の沸流は彌鄒忽(ミチュホル、現在の仁川)に、弟の温祚は漢江(現在の京畿道河南市)に都を決め各々の国を建ったが、沸流の彌鄒忽は土地がじめじめし水が塩辛いし農業が不可能だったので結局国は滅び、沸流は自殺した。


前期-漢城時期(-475年)

百済の起源は謎に包まれており、中国の同時代史料で実在が明らかになるのは4世紀近肖古王からである。その頃の百済の都は現在のソウル漢江南岸にあり、漢城と呼ばれた。漢城時代の百済は拡大を続ける北方の巨人・高句麗との死闘を繰り返した。近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこともあるが、その後は高句麗の広開土王長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになった。この間の事情は広開土王碑文に記されている。高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定するとますます百済に対する圧力を加えた。これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と同盟を結び、北魏にも高句麗攻撃を要請したが、475年にはかえって首都・漢城を落とされ、蓋鹵王が戦死した。


中期-熊津時代(475年-538年)

王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(現・忠清南道公州市)に遷したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せた。しかし6世紀に入ると、新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させた。このような中で百済の聖王は538年都を熊津から泗?(現・忠清南道扶余郡)へ南遷した。これは百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためでもあると考えられる。

ただ過去の百済の記録を多く採用している『日本書紀』の雄略紀によれば、高句麗に漢城を攻め落とされた時に百済は一度滅び(475年)、その後(477年)に雄略天皇が百済王に熊津の地を賜って国を再興させたとある。


後期-泗?時代(538年-660年)

聖王によって泗?に都が移されると同時に、国号は南扶余としたが、その国号が国際的に定着することはなかった。この頃、かつての百済の都であった漢江流域も新羅の支配下に入り、高句麗からの脅威はなくなったものの、これまで同盟関係にあった新羅との対立関係が生じた。聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送ったが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。新羅の女王はしきりにへ使節を送って救援を求めた。東アジアの歴史は「高句麗-百済-倭国」と「唐-新羅」のブロックが対立する構図へと傾斜していく。

660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen