漢城時代の墳墓は、土着の土壙墓・石槨墳に対して支配者層の積石塚が見られる。積石塚は高句麗に広く見られる墓制であり、百済が被支配者層(韓族)と支配者層(扶余族)との多重化社会であったことを反映している。熊津時代には支配者層の墓は、積石塚に代わって石室墳や?築墳が採用されるようになった。1971年に発見された武寧王陵は横穴式石室墓の典型のものである。泗?時代には長方形の石室墓が広く流行し、山の中腹に墳墓が設けられるようになった。
王都とは離れた全羅南道では、百済の勢力が及んだ5世紀末から6世紀初頭のことであり、それ以前には甕棺墓を基本とする文化圏が広がっている。これらは馬韓の勢力の名残と推定され、前方後円墳型の封土墳も多く見られ、倭との関係も推定されている。
仏教の受容については、高句麗に遅れること10年、枕流王の元年(384年)に東晋から胡僧の摩羅難陀を迎えたこと、翌年には漢山に寺を創建したことを伝えているが、4世紀末の仏教遺跡は見つかってはいない。百済の寺名がはっきりと現れるのは熊津時代の大通寺であり、聖王の時代の建立と考えられている。他に熊津時代の寺としては、公州市には水源寺址、西穴寺址、南寺址などが残っている。聖王は泗?に遷都した後に、梁から『涅槃経』などの経典、工匠・絵師などを下賜され、積極的に仏寺の造営をすすめた。王興寺・定林寺・軍守里廃寺などの寺址が扶余郡で発見されており、泗?時代の仏教が盛んであった様子が『隋書』百済伝に「有僧尼多寺塔」と記されていることを裏付けている。
4世紀後半の近肖古王の時代に博士高興(こうこう)を得て初めて漢字に触れ、その後には王仁が倭に『論語』や千字文をもたらしたと伝えられるように、百済では早くから漢文・古典に習熟していたとみられている。聖王の時代に梁から下賜されたものには、仏教経典とならんで毛詩博士が記されているように、中国からの文物の受容に熱心であったことが伺える。
脚注^ なお、韓国の国定教科書では建国神話にもとづいた前18年説を採用している。
参考文献と外部リンク
『朝鮮史』 武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000 ISBN 4-634-41320-5
『三国史記』第2巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X
『三国史記』第3巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫454〉、1986 ISBN 4-582-80454-3
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更新日時:2008年6月14日(土)05:55
取得日時:2008/10/12 16:45