4月13日、別働第二旅団の山川浩中佐は緑川の中洲にいたが、友軍の川尻突入を見て、機逸すべからずと考え、兵を分けて、自ら撰抜隊を率いて熊本城目指して突入し、遂に城下に達した。城中皆蘇生した思いで喜んだが、後に山川中佐は作戦を無視した独断専行を譴責されたといわれる。
このころ、薩軍は田原方面での戦闘の激化に伴って兵力が不足してきたため、桐野の命で淵辺群平・別府晋介・辺見らが鹿児島に戻って新たな兵力の徴集にあたった。3月25、26日の両日で1500名ほどを徴兵したものの、官軍が八代に上陸し、宇土から川尻へと迫っていたため、この兵力は熊本にいる薩軍との合流ができなかった。よって、この部隊は人吉から下って、八代から熊本へ進軍中の官軍を背後から攻撃し、退路を断って孤立させるという作戦のもとで行動することになった。
4月4日、人吉から球磨川に沿い、或いは舟で下って八代南郊に出た薩軍は、まず坂本村の官軍を攻撃して敗走させたのを皮切りとして、5、6日と勝利を収め、八代に迫ったが、7、8日の官軍の反撃によって八代に至ることができず、再び坂本付近まで押し戻された。4月11日、再び薩軍は八代を攻撃。疲労もあって官軍が一時敗退したが、13日に官軍に援軍が投入され、薩軍・官軍ともに引かず、4月17日までこの状態が続いた。17日、一箇大隊に薩軍の右翼をつかせる作戦が成功して官軍が有利となり、薩軍は敗走した。この間の萩原堤での戦いのとき協同隊の宮崎八郎が戦死し、別府晋介が足に重傷を負った。
桐野利秋は4月14日、熊本隊大隊長池辺吉十郎の建議により、二本木の本営を木山に移した。同時に鹿子木の中島健彦、鳥巣の野村忍介に急使を送って川尻の敗戦を報せ、適宜兵を木山に引き揚げるように伝えた。薩軍諸隊が熊本城・植木から逐次撤退してきた4月17日、桐野らは本営木山を中心に、右翼は大津・長嶺・保田窪・健軍、左翼は御船に亘る20q余りの新たな防衛線を築き、ここで南下する官軍を迎え撃ち、官軍を全滅させる作戦をとることにした。この時に薩軍が本営の木山(益城町)を囲む形で肥後平野の北から南に部署した諸隊は以下のような配置をしていた。(計約8,000名)
大津 ─ 野村忍介指揮諸隊
長嶺 ─ 貴島清指揮貴島隊及び薩軍6箇中隊
保田窪─ 中島健彦指揮5箇中隊及び福島隊
健軍 ─ 河野主一郎指揮5箇中隊及び延岡隊(約750名)
木山 ─ 薩軍本営
御船 ─ 坂元仲平指揮20箇中隊(計約1,300名)
対する官軍も、山県参軍らが熊本城でおこなった軍議で各旅団を次のように部署した。(計約30,000名)
片川瀬 ─ 第三旅団
竹迫 ─ 第一旅団
立田山 ─ 別働第五旅団
熊本城東部 ─ 熊本鎮台
熊本城 ─ 第四旅団(予備軍として)
川尻 ─ 別動第一旅団
隈庄 ─ 別動第二旅団
堅志田 ─ 別動第三旅団
八代 ─ 別動第四旅団
薩軍最右翼の大津へは野村忍介指揮の部隊が配備された。4月20日黎明、第一・第二・第三旅団は連繋して大津街道に進撃したが、野村の諸隊は奮戦してこれを防ぎ、そのまま日没に及んだ。
4月19日、熊本鎮台・別働第五旅団・別働第二旅団は連繋して健軍地区の延岡隊を攻めた。延岡隊は京塚を守って健闘したが、弾薬が尽きたので後線に退き、替わって河野主一郎の中隊が逆襲して官軍を撃破した。官軍は別働第一旅団からの援軍を得たが、苦戦をいかんともしがったかった。官軍はさらに援軍を仰いでやっとのことで薩軍の2塁を奪ったが、薩軍優位のまま日没になった。
別働第五旅団の主力は4月20日、保田窪地区の薩軍を攻めた。午後3時には猛烈な火力を集中して薩軍の先陣を突破して後陣に迫ったが、中島が指揮する薩軍の逆襲で左翼部隊が総崩れとなった。腹背に攻撃を受けた官軍は漸く包囲を脱して後退した。この結果、別働第五旅団と熊本鎮台の連絡は夜になっても絶たれたままになった。
長嶺地区の貴島は抜刀隊を率いて勇進し、別働第五旅団の左翼を突破して熊本城へ突入する勢いを見せた。熊本城にいた山県参軍は品川弥二郎大書記官からの官軍苦戦の報告と大山巌少将からの薩軍が熊本に突出する虞れがあるとの報告を聞き、急遽熊本城にあった予備隊第四旅団を戦線に投入するありさまであった。
薩軍最左翼の御船へは坂元指揮の諸隊が熊本に入った官軍と入れ替わる形で進駐していた。別働第三旅団は4月17日、熊本から引き返して来て御船を攻めた。坂元の諸隊はこの攻撃は退けたが、それに続く別働第一・第二・第三旅団の西・南・東からの包囲攻撃には堪えきれず、御船から敗れ去った。
このように両軍の衝突は4月19、20日に官軍が薩軍に攻撃を仕掛けたことから始まり、戦いは一挙に熊本平野全域に及んだ。先に薩軍最左翼の御船が敗れ、20日夜半には最右翼の大津の野村部隊も退却したので、翌21日早朝、第一・第二旅団は大津に進入し、次いで薩軍を追撃して戸嶋・道明・小谷から木山に向かい、小戦を重ねて木山に進出した。第三旅団は大津に進出してここに本営を移した。
このように「城東会戦」では、薩軍は左翼では敗れたものの、右翼の長嶺・保田窪・健軍では終始優勢な状況にあった。しかし、官軍は最右翼の大津と最左翼の御船から薩軍本営の木山を挟撃する情勢になった。これに対し桐野は木山を死所に決戦をする気でいた。しかし、野村忍介・池辺の必死の説得で桐野は遂に翻意し、撤退し本営を東方の矢部浜町へ移転することに決し、自ら薩軍退却の殿りをつとめた。こうして本営が浜町に後退したために、優勢だった薩軍右翼各隊も東方へ後退せざるを得なくなり、関ヶ原の戦い以来最大の野戦であった「城東会戦」はわずか一日の戦闘で決着がついた。
4月21日、薩軍は矢部浜町の軍議で、村田新八・池上が大隊指揮長を辞め、本営附きとなって軍議に参画すること、全軍を中隊編制にすること、三州(薩摩国・大隅国・日向国)盤踞策をとること、人吉をその根拠地とすることなどを決めた。この時に決められた諸隊編成及び指揮長は以下の通りである。
奇兵隊 ─ 指揮長野村忍介
振武隊 ─ 指揮長中島健彦
行進隊 ─ 指揮長相良長良
雷撃隊 ─ 指揮長辺見十郎太
干城隊 ─ 指揮長阿多壮五郎
常山隊 ─ 指揮長平野正介
正義隊 ─ 指揮長河野主一郎
鵬翼隊 ─ 指揮長淵辺群平
勇義隊 ─ 指揮長中山盛高
この後即日、薩軍は全軍を二手に分けて椎原越えで人吉盆地へ退却した。
4月27日、人吉盆地に入った薩軍は本営を人吉に置いた。4月28日に江代に着いた桐野はここに出張本営を置き軍議を開いた。江代軍議で決められたのは、人吉に病院や弾薬製作所を設けること、各方面に諸隊を配置することなどで、逐次実行に移された。この時、桐野が人吉を中心に南北に両翼を張る形で薩軍を以下の通りに配置した。
薩軍諸隊配置(『薩南血涙史』に依る)
豊後口方面 ─ 指揮長野村忍介
鹿児島方面 ─ 指揮長中島健彦
同上 ─ 指揮長相良長良
大口方面 ─ 指揮長辺見十郎太
江代口方面 ─ 指揮長阿多壮五郎
中村・加久藤・綾方面 ─ 指揮長平野正介
神瀬・小林方面 ─ 指揮長河野主一郎
佐敷方面 ─ 指揮長淵辺群平
川内方面 ─ 指揮長中山盛高
高原口方面 ─ 指揮長堀与八郎
対する官軍の配置は以下の通りである。
官軍旅団配置
健軍・木山方面 ─ 第一旅団(野津鎮雄少将)
砂取・川尻方面 ─ 第二旅団(三好重臣少将)
高森方面第三旅団 ─ (三浦梧楼少将)
鹿児島方面 ─ 第四旅団(曾我祐準少将)
同上 ─ 別働第一旅団(高島鞆之助少将)
南種山・五箇庄方面 ─ 別働第二旅団(山田顕義少将)
佐敷・水俣・大口方面 ─ 別働第三旅団(川路利良少将)
比奈久・球磨川口方面 ─ 別働第四旅団(大山巌少将)
矢部浜町方面 ─ 熊本鎮台(谷干城少将)
5月8日、辺見・河野主一郎・平野・淵辺はそれぞれ雷撃隊・破竹隊・常山隊・鵬翼隊の4隊を率いて神瀬箙瀬方面に向かった。官軍との戦闘は5月9日に始まったが、5月15日には、破竹隊の赤塚源太郎以下1箇中隊が官軍に下るという事件が起きた。これより神瀬周辺での両軍の攻防は一進一退しながら6月頃まで続いた。