田代の最大の持ち味は、なんと言ってもその果敢な攻めにある。
第20回日本選手権オートレースの際には、直線での速力がニューフジに比べて劣っているトライアンフに乗っていたにもかかわらず、鈴木辰己を直線で捌いた。その後、10周回1Cから2Cにかけて飯塚将光に捌かれたが、立ち上がりで差し返すなど、その強烈な捌きは見る者を魅了した。
しかし、こうしたアグレッシブな攻めは常に成功するわけではなく、無論、反則・妨害も何度も犯してしまっている。
反則には至らなかったものの、第22回日本選手権の優勝戦ではトップスタートから独走状態の片平巧に対して、最終3〜4コーナーにかけて最早無謀とさえ言える強引な切り込みを敢行していた。
また、第24回日本選手権の優勝戦では、最終周回の直線から1Cにかけて、先頭を走る島田信廣とそれを追う岩田行雄(15期、船橋オートレース場所属)の内に突っ込み二車刈りを敢行したが、途中でバランスを崩し岩田を押圧、結果失格となってしまった。
そして、第13回オールスターオートレースの優勝戦では終始先頭をひた走り1着でゴールしたものの、1周回1C〜2Cでの反則妨害によって失格となってしまう。史上初の1着失格、それは複数選手への競走妨害によるものであった。前代未聞のSG1着入線での失格の裁定には非常に時間がかかり、TV中継中には審議の結果がでないというほどであった。
こうした走りには批判も勿論存在した。最終3コーナーでの果敢な切り込みは多くの場合は他車への反則もしくは勝負と関係のない自己満足的な走りと看做し、田代の出走するレースは車券の購入を見送るファンも存在する。
しかしながら、田代の熱い走りに魅了される者も多く「田代信者」なるファンも多数存在する。生み出すことになる。中村政信(19期、故人)もそんな一人で、田代のことを「兄ィ」と慕っていた。
その後、スーパースター王座決定戦も制覇した田代は選手としてのピークを迎えていた。 しかし、「フジ」末期には大きく調子を落とした時期もあり、地元エースの座を転落するなど、それまで見せたことのない衰えを見せ始める。更に、新エンジン「セア」の導入が、その後の田代に大きな影響を与えることとなった。
セアの導入当初、田代はそれ以前のフジの頃の好調を維持していたかに見えた。しかし、その好調が仇となった。田代の最大の持ち味である強引な突っ込みがしにくいセアは田代向きではなかったのである。なまじ好調であったがゆえに、その点に気付くのが遅れてしまったのだ。
そして、セア乗り換え当初は不振が続いていた同期の岩田行雄が徐々に復調の兆しを見せていくのに対して、田代は徐々に不振に喘ぐこととなってしまった。
もう一つが、自分のことを「兄ィ」と慕っていた中村政信の殉職である。彼の殉職以降、田代は目に見えて調子を崩していた。それまで、勝つためならどんなに危険な走りも厭わなかった田代が、走る事に恐怖を感じるようになってしまったのである。しかし、この恐怖は一時的なものに過ぎなかった。やがてその恐れを自ら拭い去った田代は、徐々に復調の兆しを見せていった。
しかし、時を同じくして伊勢崎では高橋貢が台頭。これにより田代の存在は一部の熱狂的ファンを除いて完全に霞んでしまった。
現在、伊勢崎オートレース場と飯塚オートレース場の所属選手の一部は落車時に頚椎を保護する特殊なエアバッグを装備している。この開発にあたっては、田代の協力が大きかったとされる。当初から田代に依頼をしていたそうだが、田代自身は余り乗り気ではなかった。しかし、上述した中村政信の殉職がきっかけとなり、この開発に協力した。現在このエアバッグは徐々にではあるが選手間で広がりつつある。
ここ最近の田代は、同期の岩田などと比較すると不調と言わざるを得ない。しかし、今現在のトップクラスの選手に対して「勝ちたい」と思い、今なお自らを鍛えている。そんな田代は「闘将」と呼ばれ、今なおファンは多い。
伊勢崎での一般開催で、優勝戦へ駒を進めた田代は準決勝戦後のインタビューで「今節はアレがいないから。鬼の居ぬ間の洗濯ですよ。」と答えたことがあった。
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更新日時:2008年7月30日(水)15:41
取得日時:2008/08/20 07:36