田中耕太郎
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人物

父は千葉地方裁判所検事局(現在の千葉地方検察庁)検事正。妻は峰子(松本烝治の娘)。この妻の影響を受けて、無教会主義キリスト教から、カトリックに変わる。以後、カトリックの立場からの反共産主義を唱える。なお、大学時代、「お月さまの妖精」と自ら呼んだ女性に恋いこがれたエピソードもある。 実弟に、飯守重任(元鹿児島地方裁判所・家庭裁判所所長)がいる。


学説

専門は、商法学であり、教育基本法をはじめとする各種立法にも参加したが、他方、トミズムに立脚した法哲学者としても広く知られ、『世界法の理論』全三巻(1932年-1934年)においては、法哲学・国際私法・法統一に関する論を展開した。商法学者として研究を始めた彼は、手形上の法律関係が、証券に結合された金銭支払いを目的とする抽象的債権が転転流通する性質から、売買等の通常の契約関係と異なることや、その強行法規性、技術法的性質、世界統一的性質を基礎づけたことで知られている。商取引の国際性・世界性に着目し、商法という実定法研究から、名著『世界法の理論』(学士院賞朝日賞受賞)にいたるような法哲学研究にまで領域を広げていった。実質的意義の商法について「商的色彩論」を提唱したことでも有名。


年譜

鹿児島県鹿児島市生まれ。佐賀県杵島郡北方町(現:武雄市)出身。

福岡県立中学修猷館(後の福岡県立修猷館高等学校)卒業。第一高等学校海軍兵学校の両方とも合格し、父の勧めで、第一高等学校へ進学。

第一高等学校卒業

東京帝国大学法学部を首席で卒業し、恩賜の銀時計を授かる。

内務省に勤務するが、1年半で退官。

東京帝国大学助教授。

1917年大正6年) 同大教授。

1937年 (昭和12年)同大法学部長

1945年(昭和20年)10月 文部省学校教育局長。

1946年(昭和21年)5月 第一次吉田茂内閣の下で文部大臣(?1947年1月31日)6月 貴族院議員に就任。

1947年(昭和22年)4月 第1回参議院選挙に全国区から出馬し、第6位で当選。参議院議員。無所属最大会派の緑風会に所属。

1950年(昭和25年)5月4日 第2代最高裁判所長官に就任(?1960年10月24日)

1961年(昭和36年) 国際司法裁判所判事(1960年選出 -1970年)。


栄典

1960年11月3日、文化勲章受章。

1964年4月29日、勲一等旭日大綬章受章。

1970年4月29日、勲一等旭日桐花大綬章受章。

1974年3月1日、大勲位菊花大綬章を没後叙勲(日本国憲法施行後、皇族・内閣総理大臣経験者以外で大勲位に叙され、また文化勲章も受章したのは、田中のみ)。正二位


社会的活動

1946年文部大臣として入閣。文相として日本国憲法に署名。1947年参議院選挙に立候補をし、当選。緑風会に属し、緑風会綱領の草案を作成。その後も文相として教育基本法制定に尽力した。

1950年参議院議員を辞職して、最高裁判所長官に就任。閣僚経験者が最高裁判所裁判官になった唯一の例である[1]

長官在任当時、砂川事件で政府の跳躍上告を受け入れ、一審破棄・合憲(統治行為論を採用)の判決を下すが、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世と外務大臣藤山愛一郎両名による“内密の話し合い”と称した、日米同盟に配慮し優先案件として扱わせるなどの圧力があった事が2008年4月に機密解除となった公文書に記されている[2][3]

長官在任期間は3889日で歴代1位。1961年から1970年には、国際司法裁判所判事として活躍した。5つの事件と1つの勧告的意見に関わり、2つの個別的意見と2つの反対意見を残した。特に、1966年の「南西アフリカ事件」(第二段階)判決に付けた長文の反対意見は、有名であり、非常に権威のあるものとして、今日でもしばしば引用される。


門下生

門下に鈴木竹雄西原寛一など日本を代表する商法学者がいる。


横顔

第二次世界大戦末期には、南原繁高木八尺らと東京帝大の知米派教授グループによる対米終戦交渉、カトリック信者としての人脈を生かしてのローマ教皇庁を通じた対外和平工作にも関与した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki