日本の本塁打記録では、通算2位である野村克也の657本に200本以上の大差をつけている。野村は王と同年代に南海ホークスで活躍した選手で、本拠地の大阪球場は両翼84m、中堅115.8m(1972年に両翼のみ91.4mに拡張された)と後楽園よりさらに狭いグラウンドであった(ただ、野村は1970?77年まで選手兼監督を務めていた)。
アベレージヒッターとしても、首位打者5回は長嶋茂雄の6回に次ぐセ・リーグ歴代2位、打率3割以上を13回は張本勲の16回に次ぐ歴代2位、打率ベストテン入り17回は張本と並ぶ日本タイ記録で、1962年から1977年までの16年連続は日本記録。また、1963年から1970年にかけて8年連続打率3割以上を記録しており、これも張本の9年連続に次ぐ歴代2位タイ(ほかには川上哲治が記録している)。1969年には全イニング出場で首位打者を獲得したが、これは史上初であり、その後もイチロー(1995年)と松井秀喜(2001年)しか達成していない快挙である。
また、王の突出した記録には四死球数も挙げられる。通算四球は2390個で2位の落合博満の1475個に1000個近くの差をつけてダントツの1位。シーズン四球数は歴代1位から4位まで独占、歴代5位の金本知憲(2001年、128個)を挟んで再び6位から11位タイ(121個、2度、2007年のタイロン・ウッズとタイ)まで王の名前が並ぶ。これらを含め、シーズン四球数歴代20傑のうち延べ15を王が独占している。また、連続7打席四球を2度(1971年、1973年)記録している。(これは歴代5位の記録だが、1位(11打席)の松永浩美、2位タイ(10打席)の掛布雅之、宇野勝、4位(8打席)のダリル・スペンサーはいずれもタイトル争いに絡んだ記録である。)
さらに、通算敬遠427も2位(張本勲・228)に200個近い差をつけての歴代1位。この中にはランナー無しでの敬遠が13回含まれる。初回無走者での敬遠もあり、本人は「相手にそれだけ怖がられているんだろうと、むしろ誇りに似たものが溢れてきた」と語っている。イニング別では1回が一番多い。なお、満塁で敬遠されたことはない。
通算死球数は114。一般に死球が少ないといわれる左打者の中で最多であった。
また、一塁手としての守備も高く評価されていた。特にショートバウンドの処理、バント処理が抜群で、1972年から制定されたダイヤモンドグラブ賞に、1980年に現役引退するまで毎年選出されている。一塁手として、1963年にシーズン守備機会数とシーズン刺殺数のセ・リーグ記録をそれぞれ更新(1607守備機会、1521刺殺)、現役最後の1980年にも守備機会連続無失策のセ・リーグ記録を更新(991守備機会連続無失策)している。ハンク・アーロンの本塁打記録に並んだ1977年8月31日の大洋ホエールズ戦とアーロンの記録を超えた9月3日のヤクルト戦では、「外野のファンにお礼がしたいから」と言って、途中から右翼手として出場している。公式戦で王が外野手として出場したのはこの2試合だけである。
日本シリーズでも、通算出場試合数、得点、本塁打、犠飛で歴代1位の記録を持つなど活躍したが、意外にもシリーズMVPの受賞は1度もない。シリーズタイ記録の4本塁打を放った1963年や第3戦で阪急・山田久志から語り草となるサヨナラ3ランを放った1971年もMVPを手にすることは出来なかった。
2年目の1960年から現役最終シーズンの1980年まで21年連続でオールスターゲームにファン投票選出された(1965年のみ怪我のため出場辞退、出場回数は20回)。ファン投票選出回数(21回)、連続選出回数(21回)とも野村克也と並ぶタイ記録。なお、選手としての最多選出回数は野村の22回。但し、オールスターでは通算打率.213、本塁打率14.46と本来の力を発揮できなかった。途中5四球を挟んで連続33打数無安打という不名誉なオールスター記録も持っている。王が野村の通算本塁打記録を破った1973年以降のオールスターでは、野村がマスクをかぶった試合で27打数1安打0本塁打と完全に押さえ込まれたこともその一因である。
号数達成日対戦カード球場投手
11959年4月26日国鉄後楽園村田元一
4
ONアベック第1号1959年6月25日大阪後楽園小山正明
47
一本足第1号1962年7月1日大洋川崎稲川誠
501962年7月11日中日中日権藤博
1001963年7月28日広島広島大石清
1501964年7月16日広島後楽園池田英俊
2001965年9月19日大洋後楽園峰国安
2501966年8月18日大洋川崎新治伸治
3001967年8月31日サンケイ後楽園村田元一
3501968年9月21日中日中日小川健太郎
4001969年10月18日中日中日外山博
4501971年4月18日広島広島外木場義郎