王貞治
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早実時代

早稲田実時代は、1年生の時に外野手兼控え投手としてチームの夏の甲子園出場に貢献。2年生の時にはエースとなり、センバツで3試合連続完封により決勝戦へ進出。決勝では4試合連続完封を逃したものの、完投勝利で関東に初めて選抜優勝旗をもたらし人気を集めた。夏の甲子園では2回戦で延長11回を完投しノーヒットノーランを達成(延長戦でのノーヒットノーラン達成は、甲子園では春夏を通じて唯一の記録である)。当時の王はノーワインドアップ投法を用いていた。3年生のセンバツでは30年ぶりとなる2試合連続本塁打を放った。しかし、夏の甲子園には、東京都予選の決勝戦で敗れたため出場できなかった。

なお、国体には、当時の国籍規定のため出場できなかった。


現役時代


1959年1961年

1959年に契約金1500万円、年俸140万円という高卒新人としては破格の条件で読売ジャイアンツに入団。プロ入りの同期には村山実板東英二河村保彦江藤愼一田中俊幸張本勲足立光宏らがいる。球速が遅かったため当時の監督・水原茂に「おまえはピッチャーとして大成しない」と言われ、すぐに一塁手に転向した。王のプロ入りは川上哲治の引退直後であり、後継一塁手のライバルはこれも既に峠を過ぎていた与那嶺要くらいだったことも王に幸いした。与那嶺はキャンプでの王の打撃練習を見て「ボク、(一塁のポジション争いではかなわないので)外野手に戻るよ」と言ったという。

オープン戦で5本塁打を放つなど順調にシーズンを迎え、開幕戦(4月11日)の国鉄スワローズ戦では高卒新人ながら7番一塁で先発出場を果たした。しかし、この試合で金田正一と対戦し、3打席で2三振1四球に終わった。この結果は長嶋茂雄の初試合と似ている。これをきっかけにオープン戦と一転して当たりが止まってしまい、26打席無安打が続いた。4月26日の対国鉄戦7回表、0-0、ランナー1塁という場面で王に打順が回った。水原は代打策も考えたが、当時チームは開幕ダッシュに成功して余裕があったこともあり、まだ新人の王に経験を積ませることを優先した。国鉄の村田元一が投じた内角カーブをすくい上げた打球はライトスタンド最前列に落ちた。プロ初安打がホームラン。これが王の記念すべき1号本塁打となった。

同年6月25日天覧試合では7回、2-4と2点ビハインドの場面で小山正明から4号同点2ラン。これが長嶋茂雄とのONコンビ・アベック本塁打1号である。

1年目は.161、7本塁打と当初の期待からすれば物足りない結果に終わった。特に目立ったのが72を数えた三振の多さで(2.7打数に1三振に相当)、「王は王でも三振王」などと野次られる始末だった。

プロの水に慣れた2年目は.270、17本塁打(このシーズンのチーム最多)と主軸として恥ずかしくない成績を残し、オールスターゲームにもファン投票選出された。これは、東京六大学野球の大型一塁手、木次文夫の入団で危機感を抱いたことも好影響を及ぼしたといわれる。しかし三振も101個と依然として多かった。3年目には.253、13本塁打とやや成績を落とした。

入団3年間の打撃成績は通算打率2割4分2厘、通算本塁打37本、通算打点149と期待に応えたとは言えないものだった。そのため1961年には阪急ブレーブスのエース・米田哲也との交換トレードの話が水面下で進められたほどである(結果的に阪急が断ったため、このトレードは行われなかった)。


一本足打法

1962年にすくい上げる打法を矯正するため、荒川博打撃コーチの指導の下で『一本足打法』を習得。この打法は一本足で立つ姿から「フラミンゴ打法」とも呼ばれる。

王本人によれば「一本足を始めた経緯は記憶が定かでない。(中略)僕自身は普通の打ち方で打ってるつもりだった。でも、4年目のシーズン中にどうしても食い込まれることが多くて、それならいっそうのこと右足を上げて打ってみろと。その打席で大爆発した」とインタビューで答えており(『スポーツ20世紀』ベースボールマガジン社、2000年7月、p25)、一本足自体は年月をかけて習得したものでなく、たまたま上げたのが始まりのようである。しかし上前淳一郎のノンフィクション『巨人軍影のベストナイン』角川文庫によると2位と3位を往復するばかりの状態だったシーズン半ば「王が打てないから勝てないんだ」と八つ当たりぎみに別所毅彦ヘッドコーチが言うのを聞いて荒川が「ホームランだけならいつでも打たせてやる」とかえし、この日(7月1日)から一本足で打つことを王に命じたが、それは春季キャンプ中に様々なフォームを試したなかのひとつでしかなく、よく語られる壮絶な特訓はこの後の事である。

7月1日の大洋戦でこの打法を試行、稲川誠から本塁打を放つなど3安打を固め打ちした。以後引退までこの打法を貫くことになる。

一本足打法を完成させるための壮絶な努力はつとに有名である。この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋のが擦れて減り、ささくれ立った」「練習の翌朝、顔を洗おうと、腕を動かそうとしたが動かなかった」という話がある。また、剣道家羽賀準一のもとに弟子入りし居合を習うとともに、日本刀による素振りの指導を受けた[1]。特に有名なエピソードとして、天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る、という練習があった。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という目的もあったようである。この練習がどれほどのものだったかは、当時のチームメイトであった広岡達朗藤田元司がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ」とコメントしている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki