1962年にすくい上げる打法を矯正するため、荒川博打撃コーチの指導の下で『一本足打法』を習得。この打法は一本足で立つ姿から「フラミンゴ打法」とも呼ばれる。
王本人によれば「一本足を始めた経緯は記憶が定かでない。(中略)僕自身は普通の打ち方で打ってるつもりだった。でも、4年目のシーズン中にどうしても食い込まれることが多くて、それならいっそうのこと右足を上げて打ってみろと。その打席で大爆発した」とインタビューで答えており(『スポーツ20世紀』ベースボールマガジン社、2000年7月、p25)、一本足自体は年月をかけて習得したものでなく、たまたま上げたのが始まりのようである。しかし上前淳一郎のノンフィクション『巨人軍影のベストナイン』角川文庫によると2位と3位を往復するばかりの状態だったシーズン半ば「王が打てないから勝てないんだ」と八つ当たりぎみに別所毅彦ヘッドコーチが言うのを聞いて荒川が「ホームランだけならいつでも打たせてやる」とかえし、この日(7月1日)から一本足で打つことを王に命じたが、それは春季キャンプ中に様々なフォームを試したなかのひとつでしかなく、よく語られる壮絶な特訓はこの後の事である。
7月1日の大洋戦でこの打法を試行、稲川誠から本塁打を放つなど3安打を固め打ちした。以後引退までこの打法を貫くことになる。
一本足打法を完成させるための壮絶な努力はつとに有名である。この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋の畳が擦れて減り、ささくれ立った」「練習の翌朝、顔を洗おうと、腕を動かそうとしたが動かなかった」という話がある。また、剣道家羽賀準一のもとに弟子入りし居合を習うとともに、日本刀による素振りの指導を受けた[1]。特に有名なエピソードとして、天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る、という練習があった。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という目的もあったようである。この練習がどれほどのものだったかは、当時のチームメイトであった広岡達朗と藤田元司がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ」とコメントしている。
この年38本塁打、85打点で初めて本塁打王、打点王を獲得。同年から1974年までの13年間、本塁打王を独占し続ける。
翌1963年、初めて打率3割、40本塁打を記録。長嶋とのコンビを「ON砲」と呼ぶ呼称も定着し、巨人の2枚看板を背負うようになった。
1964年シーズン、5月3日に開かれた阪神タイガース戦(後楽園球場)では1試合4打席連続本塁打を記録。この時点で既に17本塁打。手のつけられない打棒対策として、当時の広島カープの監督である白石勝巳が、王の打球がフィールドの右半分に集中することを考慮に入れ野手の内6人をライト側に守らせる「王シフト」と呼ばれる守備体系を考え出したことで話題になった。しかし、王は王シフトにも動じることはなく、その試合でも18号本塁打を叩き込んだ。
9月6日の大洋戦で52号、53号を叩き込み、前年野村克也が作ったシーズン本塁打記録52本を一気に抜き去り、その記録を55本まで伸ばした。これは今でもプロ野球記録である。この年、巨人は優勝しなかったにも関わらず王はMVPに選ばれた。
それまで王と荒川コーチは一本足打法に必ずしも強い執着を持っていたわけではなく、実際このシーズンのキャンプでは二本足に戻すことを検討していたほどだったが、「シーズン55本塁打」という偉業達成を機に王は一本足打法が自分のスタイルであると確証した。
また、王自身は「自分は打率を気にするバッターではない」と語っているが、打率もこの頃から上がり始め、1964年は江藤慎一と最後まで首位打者を争い続けた。翌1965年も江藤と首位打者争いを繰り広げ、1968年からは3年連続で首位打者を獲得した。
1971年のシーズン後半、深刻なスランプに見舞われ、3年連続首位打者だった打率は.276まで降下、本塁打も39本に終わり、10年連続の本塁打王こそ守ったものの8年続けていた40本に届かなかった。それでも同年日本シリーズでは当時パ・リーグを代表する投手だった山田久志から逆転サヨナラ本塁打を放ち、チームの日本一に貢献。
しかしスランプは翌1972年まで尾を引き、あまりの深刻な不振に川上哲治監督も二本足に戻すことを勧めたほどであった。しかし王は頑なに一本足打法を貫き、ついにスランプを脱出、同年9月には公式戦7試合連続本塁打の記録を達成。これは1986年にランディ・バースに並ばれたものの、未だに日本プロ野球記録である。
1973年、打率.355、本塁打51、打点114で王にとって初めての三冠王を獲得。この年、通算本塁打数でも野村克也を抜き、プロ野球歴代1位に踊り出た。
翌1974年も打率.332、本塁打49、打点107で史上初の2年連続三冠王に輝いた。この年の8月4日、対阪神タイガース戦で、古沢憲司投手から史上8人目となる通算2000本安打を達成。
この頃は長嶋が既に現役最晩年で往年の打棒が望めず、王は1973年124四球(38敬遠)、1974年158四球(45敬遠)という徹底マークを受けた中で残した数字である。特に1974年は四球と敬遠に加え、出塁数294、長打率.761も日本プロ野球のシーズン最高記録を更新、非公式の記録では出塁率.532、OPS1.293、本塁打率7.86などもシーズン最高記録であった。これらの記録の内、長打率以外の記録は未だに更新されていない。
しかし、当時の巨人は僅差の試合に非常に弱く、いかに王が怪物的な打棒を振るおうとも、チームの優勝争いでは苦戦を強いられていた。結果として、1973年にはかろうじてシーズン最終戦でセ・リーグ優勝を決め、日本シリーズでも優勝したものの、1974年には中日にセ・リーグ10連覇を阻まれた。
王の通算本塁打が600本を越えた頃から、ファンの間でも王の記録がメジャーリーグの記録に迫るものであることが認知され始めた。