ゲスト出演した文化放送『くにまるワイド ごぜんさま?』でのインタビューによると、高校卒業後、俳優を目指し、清川虹子の自宅へ何のあてもないままいきなり訪問し、弟子入りを志願したが、清川には会えず、清川の付き人から「男の付き人は採らないから」と断られる。弟子にしてもらう為にかなり粘ったが、最後には「警察を呼ぶ」と言われ断念。粘れば何とか弟子入りは許してもらえるだろうと思っていた目論見が崩れてしまう。その後、生活の為しばらく土木作業員等の仕事を経験した後、声帯模写の片岡鶴八に弟子入りする。声帯模写で東宝名人会や浅草松竹演芸場などの舞台に出演するようになる。
師匠である片岡鶴八は、「声帯は人によって違う。だから、君に僕の芸はそのまま教えられない。」と、芸を教えてもらえなかったという。しかし、そば屋に連れて行ってもらった際、そばの食べ方の手ほどきを受けたり、「芸人として売れるまで、そば屋ではもりそばしか食べてはいけない」と、芸人としての「粋」を教えてもらったという。その師匠は、もりそばを食べる鶴太郎の目の前で江戸前の天丼を食べていたが、これは「売れる芸人に早くなれよ」という師匠なりの激励であった。鶴太郎は、師匠の懐の深さを知り、「いつかは師匠と天丼を食べたい」と決意するが、不幸にも売れ出した頃に師匠は亡くなってしまう。
片岡鶴太郎の芸名でトランポリンの地方興行を行う。しかし、このままで終わってしまうと脱退。地方の温泉旅館で司会やものまねの仕事につく。旅館の老人には小森のおばちゃまのものまねはウケなかったが、鶴太郎の才能を理解してくれた座長の娘さんと上京、結婚した。
その後、漫才ブームの仕掛け人となった横澤彪と再会。片岡鶴太郎の芸名でテレビに進出する。お笑いタレントとして『オレたちひょうきん族』のコーナーで近藤真彦のものまねにより一躍脚光を浴び、その後も九官鳥の「キューちゃん」のマネや浦辺粂子、たこ八郎等のものまねもしていた。当時は贅肉が多い体型で、熱いおでんを無理矢理食べさせられて大げさなリアクションを繰り出す、被虐的なキャラクターだった(ちなみにこの芸は現在事務所の後輩であるダチョウ倶楽部の持ちネタとして有名である)。そのため、片岡鶴太郎がリアクション芸人の元祖だとの声もある。
また今でこそその芸風は払拭され全く見られないが、下ネタに関するトークなどを『オールナイトフジ』では多く露出し(おまるの中にかりんとうを入れて示すなど)、特に同番組内の”鶴太郎劇団”という寸劇を行うコーナーではよく女装をし(逆に共演の女子大生が男装)絡みのシーンを演じたり、はたまた劇の最後のオチでお決まりの全裸を女子大生に見せ付けるといった(井手らっきょもこの鶴太郎の芸風に影響を受け全裸ネタを用いたと後に説明)見るに耐えないキャラクターでもあった。「アブラギッシュな男No1」という不名誉な称号を得たのもこの頃である。
お茶の間に定着して以降、物真似ではとりわけ老けキャラの開拓を得意とし、小森和子、浦辺粂子、坂上二郎など多数。後年にも、宮路社長や横山弁護士ら、話題の人物を好んで演じてみせた。持ち前の器用さから、バラエティ番組の司会やトークも数多くこなし、1986年には鶴太郎の造語「プッツン」(喩えとして脳の血管や堪忍袋の緒、あるいは緊張の糸が切れて突飛な行動を取ること。またはその人物)が新語・流行語大賞の流行語部門・大衆賞に選ばれた。
『笑っていいとも!』に出演の際、タモリと「キューちゃん」のマネを必ず行う。ちなみにこれは『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』に出てきた九官鳥がモデルとなってる。この回は、リポーター役を徹夜で務め、朝に不意にリポート先にカメラを回された際に、わけもわからず思わず口走った言葉が大うけして、その後多用された。
1980年代には某女性タレントとの浮気が報道された際、ビートたけしが「鶴太郎の野郎、この前カミさんがマンションに来てしょーがないから義理でやってたら隣の住人に『うるさいなー!毎日毎日!』と言われちゃった」としゃべり、当時の鶴太郎の人気のほどが伺えた。
元々歌が上手く(東京荒川少年少女合唱隊の第一期生でもあった)、歌唱力の高さを活かして1980年代半ば頃まではコンスタントにシングルを発売していた。「IEKI(胃液)吐くまで」など名曲が多いが、『オレたちひょうきん族』などで歌わせてもらうも何故かヒットしなかった。逆にお世辞にも上手とは言えない明石家さんまが「真赤なウソ」や人気コーナー「タケちゃんマン」の挿入歌「アミダばばあの唄」、CMで話題となった「幸せってなんだっけ」をヒットさせたことで、「何でさんまより歌の上手いオレの曲がヒットしないんだ…?」とぼやいていた(尚、鶴太郎は当時『ひょうきん族』の収録日である水曜日に生放送されていた『夜のヒットスタジオ』にも歌手として2度ほど出演実績を持っている。一方さんまは飛び入りの応援ゲストとしての登場はあったが、歌手としての出演実績はない)。
1988年にプロボクサーテストを受験。ボクシングのプロテストは30歳までしか受験できないため、当時33歳だった鶴太郎には本来、受験資格がなかった。しかし、日本ボクシングコミッション(JBC)に懸命に頼み込んだところ、「合格しても試合には出場できない」という条件で、特別に受験させてもらうことができた。結果は"合格"。プロボクサーのライセンスを取得するも、JBCとの約束によりプロ選手としてリングに上がることはできなかった。即ち、彼にとってはプロテストでの実技試験(スパーリング)が最初で最後の"実戦"となった。プロボクサーを目指し、前年から減量を始め、それまでの"小太り"から急激にシャープな体型に変わった。プロテスト後は鬼塚勝也や畑山隆則のマネージャーとして、両氏の世界王座奪取に大きく貢献(タイトルマッチではセコンドを務める)。なお、ボクシングのプロテスト受験の理由は、「今までの自分が嫌になり、それを否定したかった」という理由からである。
1988年から1994年に放送された『季節はずれの海岸物語』には鬼塚勝也と共演している。