漫画発祥の時期と場所については、主に漫画の定義に依存する多数の異なった説が存在する。スコット・マクラウドを含む多くの研究者や文献は、エジプトのヒエログリフ、日本の絵巻物、ヨーロッパのステンドグラス、コロンブス到達以前の中央アメリカ大陸の絵物語、バイユーのタペストリーなどを、漫画の起源として挙げている。 しかしながら、ロジャー・セービンは、この見解は漫画を芸術形式として正当化するために、歴史的資料を漫画の系譜に位置づけようとする企てであると反論している。
現在の漫画(MANGA)の表現方法では、手塚治虫の「新宝島」で使われた映画的表現が後の漫画家たちに大きな影響を与え、日本の漫画の表現技法として定着している。詳細については日本の漫画、日本の漫画の歴史へ。
戯画的漫画は、その大衆的性格から(また時に体制批判的な内容から)、美術が権力者や宗教に従事していた古代や中世には、積極的に残される努力はされなかった。それ故に、作例がかなり限られてくる。日本の現存する最古の漫画の作例では、法隆寺に残された漫画が上げられる。また、古代エジプトの漫画としては、権力者を動物化して表現した漫画が広く知られている。これは壁画や壷絵等、複数残されている。古代ギリシアでも、壷絵には、割と多くの戯画的表現を見出すことが出来るが、古代世界で多くの漫画がのこされているのはポンペイである。この古代ローマ時代の地方都市は、町が、ある日突然に灰に埋もれたことから、普通では残ることのないような極々日常的な絵画や落書きの類まで残されている。これらは偶然に残されたこと、庶民的性格、おおらかな性の表現といった点で似ている。
また、宗教において写本画のごくごく目立たぬ部分に落書きがあったり、また、後期中世を通じて大量に流布していた木版画には、民衆的ユーモアを確認することができる。日本の仏典の端には、写学生の気晴らしと思われる漫画などが見られる。また、ゴシック末期の例えば、ショーンガウアーやボッスの作品には、様々な戯画的世界が見られる。 宗教関連では、仏教では、釈迦一代記曼荼羅が描かれた。これは、釈迦の両親から、像の夢の妊娠に始まって、出家、涅槃までを、中央の釈迦を中心に、左下から反時計回りに展開したものである。一方、キリスト教では、イエスの物語を語り継ぐことが信仰の中心となったこともあり、十字架の道(Via Crucis)が多くの教会の内部(巡礼に倣うために、各柱の下)に描かれた。これは、イエスの死刑宣告から復活まで、14コマ+1コマで描くものであり、イエスやピラト、マリア、シモン、ベロニカなどのキャラクターが定型的に描かれる。これらを原点として、仏教でも、キリスト教でも、さまざまな時間的な物語が、絵や彫刻、ステンドグラスのコマ、ないし連続的展開によって説明される形式が確立されていた。ただし、当時の民衆は文字が読めない場合が多かったために、説明は、宗教家の活弁によって補われる必要があった。
後に日本では、日本における漫画の起源とも言われる信貴山縁起、伴大納言絵詞、鳥獣戯画等、絵巻物の傑作が生み出された。これらのうちには、現代でもなお通用する漫画的表現が見られる。
ルネサンス美術は、極めて多様な作例を残している。特に、16世紀以降は、美術に従事するものは個性的であることが優れていると考えられ、そのために、表現の幅が広げられた。レオナルド・ダ・ヴィンチは、奇妙・奇怪なものに非常に関心を示し、彼の手稿には、多くの戯画が残されている。レオナルドの興味は、マニエリスムを予感させる。そしてもまた、民衆的な笑いのセンスが、芸術的な形に現れた時代でもあった。後期ルネサンスやマニエリスムには、下卑た笑い、エロティックなもの、世相批判的なもの、そういったまるでフランソワ・ラブレーの世界が、美術に展開し、枚挙に暇がない。それは漫画と密に通じている。代表的な美術家としては、ピーテル・ブリューゲル(父)、ジャック・カロ、ジュリオ・ロマーノ、ルーカス・クラーナハ(父)などがいる。カロや、クラーナハの場合、当時飛躍的に発展しつつあった印刷技術との関連においても重要である。ウィリアム・ホガースによる連作『The Rake's Progress(道楽者のなりゆき)』(1733年)の最後の一枚
「コミック・アートの歴史」を著したR. セービンは、漫画は本質的に印刷媒体と関連付けられているという主張の下に、印刷術の発明により漫画の形式が具体化されたとの見解に立っている。したがって、印刷術に先立つすべての漫画のバリエーションは、あくまで漫画の先行形式であり、漫画の系譜に属するものとは見なせないとするのが、セービンの見解であった。
漫画の形式を備えていると見なせる、現在残されている初期の作品はフランシス・バーローによる『A True Narrative of the Horrid Hellish Popish Plot(恐るべき地獄のようなカトリック陰謀事件についての真実の物語)』(1682年)である。ウィリアム・ホガースの『The Punishments of Lemuel Gulliver(レミュエル・ガリヴァーの受難)』(1726年)も漫画と類似した形式を持つ初期の作品であるが、エディ・キャンベルは、これらの作品は漫画と言うよりも、風刺画の連作ではないかと反論している。この時期の特筆すべき制作者としては、トーマス・ローランドソン、ジャン・ヴァンデルフフト、ジェームズ・ギルレイ、ジョージ・クルックシャンクがいる。ローランドソンとギルレイは、それ以前に用いられていた見出しによるセリフの記述から、フキダシによる記述法を生み出したことにより特記される。
一例として、当時の政治を風刺したローランドソンの1782年の作品は、コマ漫画の初期の変化形であると見做せる。ローランドソンの作品により、絵物語としてのコマ漫画の形式が広まった。
19世紀ロドルフ・テプフェールによる絵物語『Histoire de monsieur Jabot(ジャボ氏物語)』(1833年)
スイスの画家ロドルフ・テプフェールは、19世紀初期の漫画史における重要人物である。絵画とその下に添えられた説明文から成るテプフェールによる一連の挿絵つき読み物は、ヨーロッパとアメリカの様々な地域で出版された(ただし、この読み物にはまだフキダシは含まれていなかった)。当時の著作権法の不在により海賊出版されたこれらの翻訳版は、両大陸で漫画という形式を持つ作品のための市場を整えた。[2]
1845年に、テプフェールは自書『Essay on Physiognomics(人相学試論)』の「picture story(絵物語)」で、彼の考えを形式付けている。「絵物語を構築し、しばしば澱となって沈んでいる素材から可能性を余さず引き出してやるのに、名匠の業を身に付ける必要はない。絵物語の構築は、単に鉛筆画で軽佻浮薄なカリカチュアを描き出すことではない。また、単に世間の噂話を物語にすることでも、駄洒落を絵画化することでもない。あなたは実際にある種の演劇を発明し、企画に沿った形で部品を配置し、全体を満足な形に整えねばならない。ただジョークを書き綴ったり、対句を繰り返したりするだけでは駄目なのだ。それが優れたものであるにせよ、劣ったものであるにせよ、真面目なものであるにせよ、馬鹿げたものであるにせよ、狂ったものであるにせよ、正常なものであるにせよ、あなたは『本』を作るのである」[3]