寿永2年(1183年)春、以仁王の令旨を受けて挙兵していた従兄弟の源義仲が、頼朝に追われた叔父の源義広・源行家を庇護した事により、頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。しかし、両者の話し合いで義仲の嫡子義高を頼朝の長女大姫の婿として鎌倉に送る事で合意し、和議が成立した[19]。
義仲は行家・義広と共に平氏との戦いに勝利を続け、7月に平氏一門が安徳天皇と共に都を落ちると、大軍を率いて入京し、後白河法皇に召され平宗盛ら平氏追討の命を得る。しかし寄せ集めである義仲の軍勢は統制が取れておらず、飢饉に苦しむ都の食糧事情を悪化させ、また義仲が皇位継承に介入した事により院や廷臣たちの反感を買った[15]。朝廷と京の人々は頼朝の上洛を望み、後白河法皇は義仲を西国の平氏追討に向かわせ、代わって頼朝に上洛を要請する。しかし10月7日、頼朝は使者を返して要請を断った。その理由として、一つは藤原秀衡と佐竹隆義に鎌倉を攻められる恐れ、二つは数万騎を率い入洛すれば京がもたないとしている。10月9日に朝廷は平治の乱で止めた頼朝の位階を復した。14日には東海道と東山道の所領を元の本所に戻しその地域の年貢・官物を頼朝が進上し、その命令に従わぬ者の沙汰を頼朝が行なうという内容の宣旨が下された(寿永二年十月宣旨)[15]。頼朝は既に実力で制圧していた地域の所領の収公や御家人の賞与罰則をおこなっていたが、それは朝廷からみれば非公式なものであった。寿永2年10月に宣旨が下されたことにより、当初「反乱軍」と見なされていた頼朝率いる鎌倉政権は朝廷から公式に認められる勢力となった。
閏10月15日、頼朝の上洛を恐れる義仲は、平氏追討の戦いに敗れると京に戻り、頼朝追討の命を望むが許されず、11月には頼朝が送った源義経率いる軍が近江国へと至る。平家と義経に挟まれた義仲は、院を攻め後白河法皇を拘束すると、頼朝追討の宣旨を引き出し、寿永3年(1184年)1月には征夷大将軍(または征東大将軍)に任ぜられる。しかし20日に源範頼と義経は数万騎を率いて京に向かい、防ぐ義仲は近江国粟津で討たれた。
頼朝は鎌倉に在った義高の殺害を企て、これを大姫が義高に伝えると、4月21日に義高は女房に扮し鎌倉を逃れた。頼朝は怒って追手を発し、24日に武蔵国入間川原で義高を討つ。大姫は嘆き悲しみ、憤った母の政子は義高を討った家人を梟首するが、大姫はその後も憔悴を深め、後にわずか20歳で亡くなる事となる。
義仲を討った範頼と義経は、平氏を追討すべく京を発し、元暦元年(1184年)2月7日、摂津国一ノ谷の戦いで勝利し、平重衡を捕え京に連れ帰った[15][7]。頼朝は四国に逃れた平氏を更に追討すべく、九州・四国の武士に平氏追討を求める書状を下す。
6月5日平頼盛(命の恩人池禅尼の子)[20]、鎌倉に戻った範頼、源広綱、源義信、一条能保(同母姉妹の夫)らの官位を朝廷から得る[7]。この時、在京していた義経は戦功がありながら任官から外されており、8月6日、後白河法皇の意向を受けて頼朝の内挙を得ずに検非違使に任官し、激怒した頼朝は義経を平氏追討軍から外した[21]。8月8日、範頼を大将とする平氏追討軍が鎌倉から出陣する。従わせた家人は北条義時、足利義兼、千葉常胤、三浦義澄、小山朝光、比企能員、和田義盛、天野遠景らである。頼朝は範頼に対し京への駐留を禁じており、追討軍は27日に京へ入ると29日に平氏追討使の官符を賜い、9月1日には西海へと赴いた[7]。
10月6日、公文所を開き大江広元を別当に任じる。公文所は後に政所と名を改め、後の鎌倉幕府における政務と財政を司る事となる[7]。20日には訴訟を司る問注所を開き、三善康信を執事とする[7]。この時期になると二階堂行政、平盛時ら中下級の有能な官人達が才能を発揮する場を求めて鎌倉に下向するようになり、彼らが幕府初期官僚組織を形成する。
文治元年(1185年)1月6日、西海の範頼から兵糧と船の不足、関東への帰還を望む東国武士達の不和など窮状を訴える書状が届く。頼朝は安徳天皇や建礼門院の無事と、軍を動かさず筑紫の武士からくれぐれも反感を得ぬ様に記した書状を返し、九州の武士には、範頼に従い平氏を討つ事を求める[7]。追討軍から外されて都にいた義経の四国派遣を決め、10日、義経は讃岐国屋島に拠る平氏追討へ向かう。26日、九州の武士から兵糧と船を得た範頼は、周防国から豊後国へと渡る。2月19日、義経は屋島の戦いで平氏を海上へと追い、3月24日、壇ノ浦の戦いで安徳天皇ら平氏一門は入水し、平宗盛、建礼門院らを捕え、遂に平氏を滅ぼした。
4月27日に平宗盛を捕らえた功により、従二位へ昇った。
文治元年(1185年)4月、平氏追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、義経を弾劾した書状が届く[22]。